江分利満氏の優雅な生活
2006/5/22
1963年,日本,102分
- 監督
- 岡本喜八
- 原作
- 山口瞳
- 脚本
- 井手俊郎
- 撮影
- 村井博
- 音楽
- 佐藤勝
- 出演
- 小林桂樹
- 新珠三千代
- 東野英治郎
- 中丸忠雄
- 矢内茂
- 英百合子
サントリーの宣伝部に努める江分利満氏は何事もつまらなくて仕方がない。今日も一人飲み歩いて、バーのマダムに管をまいていたが、見知らぬ男女に呼び止められる。翌朝、起きてみるともらった名刺に面会の約束が。会社に来た二人に会ってみると、江分利満氏が小説を書くと約束したと言う…
高度成長期のサラリーマンを主人公にした一風変わったコメディ映画。江分利満氏のとぼけたキャラクターが魅力の不思議な作品。
この映画は間違いなくコメディなのだと思うが、今ひとつ笑えない。おかしなところもあるのだが、声を上げて笑うと言うことは皆無と言っていい。
しかしそれでもこの映画は面白い。その面白さの秘密はそのテンポにあると思う。特に江分利満氏が小説のようなものを書き始め、そこに書くことを語っているその部分などのテンポは本当に見事である。ことさらにテンポが速いとか斬新だとか言うことはないのだけれど、リズムよく映画が進み、見ているほうも映画のリズムに乗っかって心地よく映画を見ることが出来るのだ。
このリズムはまず冒頭の江分利満氏が飲み屋やらバーやらを飲み歩くシークエンスで観客を捉える。このシークエンスに特徴的なのは江分利満氏のクロースアップと「おもしろい/おもしろくない」というセリフによってそのそれぞれの場所がつながって行くというモンタージュである。それぞれの店に費やされる時間は短ければ数十秒、長くても2・3分というところで、途中の移動を映したカットもまったくなく、すばやい場面の転換で勢いよく進んで行く。
この場面の転換の速さはこの後も絶えず繰り返される。たとえば江分利満氏の小説のないように入ってすぐの子供が貸し本屋に通うところから始まるシークエンスでも、カットが切り替わると時間や空間がジャンプしてまったく違うシーンが始まるということが繰り返される。この突然の場面転換に観客は一瞬面食らうわけだが、もちろんすぐにその場面の状況が飲み込める。それで観客はすっとそのシーンに入ってゆき、その繰り返しが観客を映画に引き込むことにつながるのではないか。
そしてもうひとつテンポのよさを生み出しているのは、徹底的に無駄な部分をそぎ落とした非常にモダンなモンタージュの仕方である。たとえば、上述の子供が貸し本屋へ通うところから始まるシークエンスの中に、江分利満氏が社宅の近所の人々の話しかけるシーンがあるが、その会話と会話の間の数メートルの移動がカットされ、江分利満氏は瞬間移動しているように見える。これもバーのシークエンスと同じく移動という無駄な時間をそぎ落としてテンポを生み出すためにとられた手法だろう。
このようにしてとにかくポンポンと次から次に出来事を投げかけてくるから、観客は知らず知らずのうちにそのペースにのって映画を見るようになり、何かを考えることもなくおかしなところでは笑って、悲しいところではしんみりとして、江分利満氏の生活に同化して行くのだ。
おかしなところといえば、江分利満氏が数がうまく数えられないというシーンなどが好きだが、このシーンではナレーターがカメラの位置にいると想定されて、江分利満氏は時々カメラの方を見て不満げな表情を作ったりする。これは掛け合い漫才のような効果を生んで面白いわけだが、その片割れがカメラの位置(つまり観客の位置)にいると言うのが面白い。もうひとつ好きなシーンといって思い出すのが江分利満氏の服装のことをナレーターが語りながら江分利満氏はパンツ姿から徐々に来ているものが増えて行くというシーンである。このシーンでもナレーターがいわば狂言回しのようになって滑稽さを演出している。
これらのシーンを観ていると、観客はもしかしたらナレーターにどうかしながらこの映画を見るように仕向けられているのではないかと思う。このナレーターというのはもちろん小説を書いている江分利満氏自身なのだけれど、かかれている小説内の江分利満氏とは微妙にずれていて、そのあたりが面白い。観客はナレーターの側の全てを見通せる位置にいる江分利満氏の方に同一化するのではないか。