泥の河
2006/5/31
1981年,日本,105分
- 監督
- 小栗康平
- 原作
- 宮本輝
- 脚本
- 重森孝子
- 撮影
- 安藤庄平
- 音楽
- 毛利蔵人
- 出演
- 田村高廣
- 藤田弓子
- 朝原靖貴
- 加賀まりこ
- 桜井稔
- 柴田真生子
- 蟹江敬三
- 殿山泰司
- 芦屋雁之助
昭和31年、大阪。川沿いのうどん屋の息子・信雄は店の常連の鉄くず屋のおやじが馬車に轢かれて死ぬのを目撃する。翌日、雨の中その馬車の横に立っていた少年きっちゃんに出会う。その少年は河に舫われた宿舟にすんでいた。
宮本輝のデビュー作である同名小説をこれもデビュー作となる監督・小栗康平が映画化。新しい感性が日本映画の低迷期にひとつの光明を見せた作品。
この作品が作られたのは昭和56年、原作が書かれたときまで遡っても昭和52年、終戦からすでに30年以上がたち、戦争の記憶は風化しつつあっただろう。そんな中、この作品は昭和31年という時代を舞台にする。原作者の宮本輝は昭和22年、監督の小栗康平は昭和20年生まれだから、ともにちょうどこの物語の主人公の少年たちくらいの年代ということになる。
つまり、この映画は彼らの少年時代の風景、日本がまだまだ貧しかった時代、朝鮮特需や神武景気のおかげでようやく食べ物に困るほどではなくなったけれど、まだまだ生活に余裕がなかった時代の風景を描いたものである。そしてそれはまたいわゆる“団塊の世代”の少年時代の風景でもある。
今の日本を支えてきた“団塊の世代”の原風景はまさにこのような風景であり、そしてそれはすなわち“戦後”である。
“戦後”は本当に長く続いたが、団塊の世代が定年を迎え、引退しようとしている今、いよいよその意味は急速に薄れてきているように思える。
この作品の中では「もはや戦後ではない」という言葉が非常に効果的に使われている。しかしそれをその言葉が世間をにぎわしてから四半世紀を経て使われるとき、そこには「まだ戦後は終わっていない」という意味が感じ取れる。少年きっちゃんは父親から教わったという歌(「戦友」)を歌う「ここは御国を何百里 離れて遠き満州の…」。これを聞きながら田村高廣演じる父親は物思いにふける。団塊の世代は直接戦争を経験してはいないが、戦争は父母をはじめとする周囲の人々を通して経験する身近なものであったはずだ。周囲の人の生々しい記憶の傷跡を彼らは見、間接的に戦争を経験した。その生々しい記憶をとどめているのに「もはや戦後ではない」といわれても、そこに実感はない。人々はまだまだ戦争の生々しい記憶の中を生き、“戦後”を生きていたのだ。
しかし記憶は風化する。
私はこの映画を見ながら不意に昔の電車にはボックス席の横の壁に栓抜きがついていたことを思い出した。この映画にその栓抜きが映るわけではなく、電車の中でリボン・オレンジを飲むというシーンがあるだけなのだが、そのシーンを見ながら、そんなことを思い出した。あの栓抜きはいつごろまであったろうか…
団塊の世代の人々ならば、この映画を見ながらより多くのことを思い出すだろう。穴の開いた靴、穴のない50円玉、などなど
それを忘れてしまっているということはすなわち“戦後”を忘れてしまっているということである。そして“戦後”の記憶を風化させることは戦争の記憶を風化させることである。戦後を思い出し、戦争を思い出すことができれば、私たちは再び戦争を起こすという暴挙に及ぶことをさけられる。しかし、戦後の記憶が風化し、戦争の記憶が風化して、もはや戦争を思い出すことが不可能になってしまったら、戦争を避けることはできなくなってしまうのではないか。この映画を見ながらそんなことを思う。
小栗康平はこの作品のあと84年の『伽や子のために』、90年の『死の棘』と1950年代を舞台した作品を連続して撮った。これは彼なりに“戦後”を記憶にとどめる作業だったのだろう。そして私たちもそれを観ることによって“戦後”をくり返し思い出すことができる。
もちろんそれだけではダメだけれども、この映画の生々しさはそのような時代が確かにあったということを、それを経験していない私たちの記憶にも焼き付ける。