素晴らしき放浪者
2006/6/2
Bondu Sauve des Eaux
1932年,フランス,84分
- 監督
- ジャン・ルノワール
- 原作
- ルネ・フォーショワ
- 脚本
- ジャン・ルノワール
- 撮影
- マルセル・リュシアン
- 音楽
- ラファエル
- ヨハン・シュトラウス
- 出演
- ミシェル・シモン
- シャルル・グランバル
- マルセル・エイニア
- セヴェリーヌ・レルシンスカ
- ジャン・ダステ
公園で暮らす放浪者のブデューの犬が行方不明になる。犬を探しながらふらふらとセーヌ川にかかる橋までやってきたブデューは何を思ったかいきなり側に飛び込む。それを望遠鏡でたまたま見ていた本屋の店主レスタングワは一目散に駆け出してブデューを救いに行く。
ジャン・ルノワールの代表作のひとつ。なんだかよくわからないがおもしろい。
この物語の中心にいるブデューという放浪者(乞食、あるいは今ならばホームレス)はよくわからないキャラクターである。まずなぜセーヌ川に身投げをしようとしたのかわからない。そして、救われたら救われたで悪態をつく。そしてその命の恩人の家で無作法に振舞い、ケロリとしている。
それを見るにつけ、このブデューの振る舞いというのは決してわざとではない、レスタングワに嫌がらせをするためにやっているわけではないということはわかる。ただ彼にはいわゆる“ブルジョワ”の常識がわからないのだ。おそらく彼は生まれついての放浪者なのだろう。親がどうしたのかはわからないが、子供の頃から放浪生活を送り、常識を身につける機会もなかったのだ。
そう考えると、彼の自殺という振る舞いはなんとも不思議に思える。自殺というのはどう考えてもブルジョワの発想であって、彼のような自由な人間が選択する行為ではない。犬が行くへ不明になったからと言って彼が自殺するとも思えないから、私は彼が川に飛び込んだとき、そこに犬がいたのかと思ったくらいだ。
まあ、彼の川に飛び込むという行動がどんな意味を持つのかはわからないままでいいとして、映画としてはその結果彼がレスタングワ家に入り込んできたことのほうが重要なのである。表面上はまっとうなブルジョワ家庭であり、それとブデューの“原始人”ぶりが対比されるわけだが、この家庭が実は旦那が女中と愛人関係にあり、さらには妻のほうも夫の友人と関係があったらしいという家なのである。
そうなると、そこに見えてくるのは彼らとブデューの違いではなく、類似である。どちらも結局は自分の本能の赴くままに生きている。違いはといえば表面を取り繕っているかどうかということに過ぎないのである。
つまり、この映画はブデューという“原始人”を通してブルジョワを皮肉っているということだ。そして、そのために用いられるもうひとつの小道具がお金である。ブデューはもらった宝くじが当たって大金を手に入れてアンヌ・マリと結婚するわけだが、その結婚式の日、彼は全てを捨てて放浪の身に戻る。彼にとってお金は意味がなく、お金によって手に入れた結婚にも意味がない。彼が必要とするのは自由であり、お金のためにその自由が奪われるのはいやなのだ。
などと書いては見たが、この文章はまったくもってこの映画を言い表してはいない。ブデューが自由であるようにこの映画も非常に自由である。それがどう見えるかは見る人に完全に依拠している。ブデューがいらだたしい人物であり、彼がいわば“エイリアン”であることは明らかだが、彼をどう見るか、受け入れるのか拒否するのかについてはまったく明らかにならない。それは明らかにならないまま彼は去ってしまうのだ。そして、彼がいなくなったことを残された人々がどう受け取ったのかということについてもわずかなヒントしか与えられない。
このように解釈の余地が大きいからこそ、この映画は公開から70年以上がたっても広く見られているのだろう。