更新情報
上映中作品
もっと見る
データベース
 
現在の特集
サイト内検索
メルマガ登録・解除
 
関連商品
ベストセラー
no image

小島の春

★★★★星

2006/6/12
1940年,日本,88分

監督
豊田四郎
原作
小川正子
脚本
八木保太郎
撮影
小倉金弥
音楽
津川主一
出演
夏川静江
菅井一郎
杉村春子
勝見庸太郎
林幹
preview
 瀬戸内海に浮かぶ島、そこを訪れた一人の医師が、その島にいるハンセン病の患者を療養所に入院するように説得して歩く様子を描いた物語。実際にそのような活動をしていた医師小川正子の手記が原作となっている。
  現在はもちろんハンセン病の伝染性は否定され、強制収用が問題となっているわけだが、当時はそのような活動が美談として語られており、この作品もヒューマニズムを謳った感動作として作られている。
review

 この映画で“癩病”と呼ばれているのはもちろんハンセン病のことで、現在はハンセン病は伝染病ではあるが、その伝染力は非常に弱く、乳幼児以外にはほとんど感染することがないことが知られているし、遺伝病では決してなく、
  不治の病でもない。そして、伝染病であるという誤解のもとに強制的に療養所に収容された患者たちに対して強制的な中絶手術や避妊手術が行われたことなど数々の人権問題が持ち上がっていることも周知のことである。そのような問題意識で、作られた映画も数多くあり、現在ではそのような映画の方が見る機会は多いし、ハンセン病に対する偏見を助長するような映画は望ましくないものとして排除されるような傾向があることも否定できない。
  そのように、考えるとこの映画が現代においてそれほど歓迎される映画ではないのは明らかだろう。この映画の主人公の医師は患者たちを家族から引き離し、療養所に入れることで感染を防ごうとしているのだが、それがある種の美談として描かれているわけである。ハンセン病についての歴史というフィルターを通してこの物語を見てしまう現代の観客には、これを素直に美談と捉えることは出来ないし、感動的な物語と見ることも出来ない。
  ハンセン病の問題がこれほどまでに大きな問題となる以前には、この作品はヒューマニズムに溢れた感動的な作品だったのだろう。患者を無理やりに療養所に連れて行くのではなく、感染の危険やあとのフォローについて粘り強く説明し、患者を説得して納得した上で療養所へと入ってもらうというこの医師の姿勢の素晴らしさ、引き離される運命にある家族の間の愛、家族に対する愛ゆえに生まれる葛藤、といった要素がそれぞれの登場人物に深みを与えているのだから。

 しかしやはり、私にはこの医師を素晴らしい人格者だと素直に見ることは出来ない。確かに彼女はその当時の痛切に従って、彼女なりに全力を尽くして、患者とその家族のためにそれこそ粉骨砕身して活動しているということはわかるのだが、それがすっと心には入ってこないのだ。そのような観想を持つのは私だけに限らないのだろう。だからこの作品はもうヒューマニズムに溢れた感動作とうたわれることはない。たとえば、1978年に出された猪俣勝人・田山力哉著の『日本映画作家全史』の豊田四郎の項にはこの『小島の春』について「脈々とヒューマニズムを謳い上げた感動的な大傑作であった」と書かれているが、2005年のフィルムセンターの特集上映の概要には「杉村春子の熱演が評価され」ということが書かれているにとどまっている。この「杉村春子の熱演」というのも高峰秀子が自伝的エッセイ『私の渡世日記』の中で「私は杉村春子の演技に、雷に打たれたようなショックを受けた」と書いているのに端を発しているのではないかと思う。
  そのようにまず引き合いに出されるのが杉村春子の演技であるというのは、この作品のテーマがそれだけ現代においては扱いにくい題材になってしまったということを端的に表しているような気がする。杉村春子の演技は確かに素晴らしいが、この作品において、杉村春子は決して中心的な役を演じる女優ではない。高峰秀子が衝撃を受けたという癩病患者を演じるのも僅かワンシーン、時間にすればほんの5分くらいのシーンのことで、顔はまったく映らないのだ。ここで顔が映らないのはおそらく、彼女がより重要な役といえる患者の一人の妻の役と二役こなしているからではないかと思う。そんな1シーンの演技がまず引き合いに出されてしまうというのはやはり、作品として普通ではないと思う。

 ただ、役者から豊田四郎の作品を見るというのは面白いかもしれないと思う。杉村春子はこの作品の前年に撮られた『鶯』で初めて豊田作品に出演し(映画出演としてまだ2作目)、その後もしばらく立て続けに出演している。そして、杉村春子に限らず、この頃の豊田作品には新劇役者が数多く起用されている。これは、この時期の豊田四郎というのが東京発声という独立プロに所属し、まだ始まったばかりのトーキーというジャンルに挑戦していたからだろう。日本初のトーキー映画といわれるのは五所平之助監督の『マダムと女房』だが、これが作られたのが1931年で、日本のトーキー映画の歴史はこの『小島の春』が作られた時点でまだ10年の経験しかなかったのである。サイレント時代から活躍していた役者というのはそれまでセリフをしゃべったことがなかったわけだから、普段からセリフをしゃべっている新劇役者を起用するというのも一理あることなのである。
  実際、豊田四郎も戦後になると会社の意向もあってだろうが、純粋な映画俳優を多く起用するようになる。この新劇役者の多様というのはサイレントからトーキーへという移行期に特徴的な出来事なのだ。
  豊田四郎という監督は決して超一流の監督ではない。確かにいい作品を数多く残していることは確かだが、小津や成瀬のような巨匠ではなく、様々な作品を器用に作る職人的な監督なのである。そのフィルモグラフィーの共通点といえば原作もの、とくに文芸作品を原作とした作品が多いということくらいのもので、起用する役者も、作品のジャンルもまったくバラバラなのだ。
  これはおそらく、撮影所システムという構造の中でサラリーマンである監督の避けられない運命だったのだろう。それは映画作家としては捉えどころのなさにつながるが、もっと大きな目で見れば、その時代時代を体現した作品を撮っているということもいえるのである。特にこの『小島の春』などは原作も当時ベストセラーになった作品で、出版されたのは原作者である小川正子が亡くなった1938年、映画化の2年前のことである。つまりこの作品は、ベストセラーという題材、トーキーという技術、新劇役者の起用、とどれをとってもこの時代を象徴するといいえるような要素を含んでいるということである。

 しかしもちろん、それは豊田四郎が日和見的な傾向を持つ監督だということを意味するわけではない。彼はその時代の精神に沿いながら、自分なりの思想を映画に込めていたのだと思う。この作品も小川正子という人間が持っていたヒューマニズムというものを映画に定着させることに意味を見出しているのだろう。ただ何十年という時間の経過がその見方を変えてしまっただけのことだ。
  その時代、その映画に描かれた時間をリアルタイムに生きる人々の心にぐっと迫ってくる映画、豊田四郎が撮ろうとしていたのはそのような映画なのではないかとこの映画を見ながら思う。彼は数々の文芸作品を原作としていわゆる文芸映画を数多く撮ったが、そのほとんどは近代的な作品であり、その作品を観る観客の感覚から離れた作品ではないのではないか。今『雪国』を映画化するのと、およそ半世紀前に『雪国』を映画化するのでは観客にとっての意味はまったく違ってくるのだ(ちなみに原作の出版は1937年)。
  そのようにその時代時代の観客の心を打つ作品を撮るということは、同時にそれがリアルな作品であるということも意味する。そこで描かれているものが観客のリアルな生活と密接なものとして捉えうるということなのだ。この『小島の春』も観客のそれぞれが抱える“癩”に対する意識に迫って行くものだろう。
  そのように見て行くと、豊田四郎という一見ばらばらで捉えどころに内容に見える監督に一貫しているのは、彼がリアリストであるということなのかもしれないと思えてくる。いわゆる文芸映画とリアリズムというのはイメージ的には対極にあるように思えるが、豊田四郎という監督は、文芸作品を映画化しながら、その作品にリアリティを求め続けた監督なのではないか。

Database参照
作品名順: 
監督順: 
国別・年順: 日本50年代以前

ホーム | このサイトについて | 原稿依頼 | 広告掲載 | お問い合わせ