マダムと奇人と殺人と
2006/6/20
Madame Edouard
2004年,フランス=ベルギー=ルクセンブルグ,97分
- 監督
- ナディーヌ・モンフィス
- 原作
- ナディーヌ・モンフィス
- 脚本
- ナディーヌ・モンフィス
- 撮影
- リュック・ドリオン
- 音楽
- ベナバール
- 出演
- ミシェル・ブラン
- ディディエ・ブルドン
- ジョジアーヌ・バラスコ
- ドミニク・ラヴァナン
- オリヴィエ・ブロシュ
- ジュリー=マンヌ・ロス
- リュファス
ベルギー、ブリュッセル、レオン警視のところに墓地で死体を見たという匿名の電話がかかってくる。レオン警視は触ったものは何でも壊す助手のボルネオと捜査に行くが空振り。しかし、その夜、愛犬が死体の指をくわえていることに気づき、再び墓地に行くと、墓堀の青年が倉庫に死体を隠していた…
フランスでカルト的人気を誇る「レオン警視」シリーズの作者ナディーヌ・モンフィスが自ら監督したクライム・コメディ。風変わりな人々が登場するのがおかしいヨーロッパ的コメディ。
こういう変なコメディというのがヨーロッパには結構ある。何が変かといえば、登場人物たちが変であるということをまったく気にしていないという点である。助手のボルネオは(ボルネオという名前もすごいが)何かの理由で爆発した部屋でそのまま仕事をしているし、警視の部屋も爆発で壁に穴があいているが、誰もそのことを指摘しはしない。犬が死体の指をくわえてくるというのもかなり大変なことだし、なぜ警視は役にも立たない犬をいつも連れているのかもまったく意味がわからないが、誰もそのことを指摘しようとはしないし、それが笑いを狙ったものなのかどうかもよくわからないくらいだ。
ハリウッドのコメディだとそうは行かない。おかしなところがあれば、それをこれ見よがしに指摘し、そのおかしさを観客に気づかせようとするのだ。ハリウッドでもこのような作品はあるが、それはシュールとかオフビートとか言われる反主流の作品である。逆にヨーロッパではこのようなオフビートのコメディが主流のように思える。ハリウッドの「ほれ笑え」的なヨーロッパのコメディはだいたい笑えない。
この作品もそんなヨーロッパの主流のコメディとしてなかなかおもしろい。かなりシュールな印象が付きまとうが、それはこの作品がマグリットを作品全体の統一的なイメージとして採用しているからだろう。事件はマグリット愛好家の墓から始まる。その墓には煙を出し続けるパイプがある。このパイプはマグリットの有名な絵画「これはパイプではない」のパイプだろう。そして、マグリットの絵に登場するシルクハットの男の後姿が登場し、マグリットの絵のように室内に雨(雪?)が降り、“突然死”の部屋にはマグリットの絵を模倣したようなリンゴの絵がかかる。
そしてやはり、そのシュールさが集中するのがビストロ“突然死”である。ここには一般的な常識からすれば奇妙な人々たちが集う。そのおかしさがこのコメディを支えていると言ってもいい。おそらく、原作でもレオン警視とこの“突然死”を軸に物語が展開して行くのだろう。それでこそ物語はおもしろくなるのだ。
しかし、彼ら同士の間では奇妙だということはまったく問題にならない。お互いを認めているというわけでもないのだけれど、気にもしないし、それでいて友達としては尊重する。そんな奇妙な関係が成り立っている。
これはやはり個人主義的な考え方なのだろうか、自分は自分、他人は他人、他人が奇怪に見えても、それがその人のアイデンティティならそれを否定するようなことはしない。そのような自立した人間同士の関係からいい関係が生まれるのだと。
しかし、その個人主義が孤独を生み、狂気をも生む可能性があるというのも物語のひとつの眼目となる。個人主義にはいい点もあるが、人々は孤独でもある。だから人々は愛を求める。その物語がここではイルマと娘の物語として現れてくるのだ。
コメディのようで、サスペンスのようで、ヒューマンドラマのような、どの要素もずば抜けてはいないけれど、それなりによくできている。中途半端といえば中途半端だが、バランスがいいといえばいい、コメディというのは結構見る人を選ぶジャンルで、この作品もいわゆるヨーロッパのコメディを嫌いな人にはまったくおもしろくない悪趣味な作品と映るかもしれないが、ヨーロッパのコメディを好きという人ならばきっと気に入るであろう作品である。
いったいいつどこで公開したの?という小規模な公開だったが、もう少しみられてもいい作品だと思う。