リクルート
2006/6/27
The Recruit
2003年,アメリカ,115分
- 監督
- ロジャー・ドナルドソン
- 脚本
- ロジャー・タウン
- カート・ウィマー
- ミッチ・グレイザー
- 撮影
- スチュアート・ドライバーグ
- 音楽
- クラウス・バデルト
- 出演
- アル・パチーノ
- コリン・ファレル
- ブリジット・モイナハン
- ガブリエル・マクト
- ケン・ミッチェル
MITを優秀な成績で卒業したジェイムズ・クレイトンはオリジナルのプログラムでDELLの人事担当の目を引く。しかし、その世、バーテンのアルバイトをしているところにCIAのリクルート担当という男が現れる。はじめは信用しなかったジェイムズだが、ペルーで謎の死を遂げた父親の話が出てその男バークを信用し始める…
売り出し中のコリン・ファレルがアル・パチーノと共演したサスペンス。いかにもなハリウッド映画。
サスペンス=謎解きとしてはそれなりに楽しめる。CIAのエージェント候補となったジェイムズが出会う様々な出来事は「全てはテストだ」というバークの言葉に支配され、全てが疑わしくなる。「誰も信じるな」という言葉が見事にジェイムズの心に突き刺さり、しかし彼は難関を次々突破して行くという仕組み。そのからくりを見破ろうという姿勢で見れば、その一つ一つの謎解きを楽しんで見ることは出来る。
しかし、最後まで見て腑に落ちない感じは残る。ほとんどは観客に謎をかけるためのからくりに過ぎず、全体的な筋が通っていないと。だが、決してそうではないとも思う。最終的に理不尽に見える行動も、その表面にだまされてはいけない。この映画は最後までそのからくりを手放さない。この映画の結末自体も実際に見えているのとは違っているに違いないのだ。
抽象的で何を言っているのかちっともわからないのは、具体的に書くと、ネタばれをしてしまい、この映画のおもしろさの8割以上が失われてしまうから。ネタばれを怖れず書けば、結局バークがジェイムズをリクルートしたのは自分の正しさを証明するためだったのだ。表面的には大義が勝ったように見えるが、本当はそうではなく、バークの狙い通りだったということだ。
さて、この映画の最大の問題はその“大義”である。人は本当に“大義”あるいは“正義”などという曖昧なもののために愛や自分自身を捨てることができるものなのか。あるいは、“大義”とは自分自身や愛を捨て去るに値するほどたいそうなものなのか。この映画はハリウッド映画らしく結末をぼかす。この映画の表面的な結末は、大義と愛の両立を妨げていた欲望を大義が打ち負かすことによって愛も救うことが出来るというものだ。大義と愛は両立し、そこに選択の問題は存在しなかったように見える。
しかしそれはまやかしで、実際には大義と愛の選択の問題は存在するし、ジェイムズはその選択に直面して大義を取ったという事実は厳然としてあるのだ。この作品は結末によってぼかすことでその選択がなされたことを隠す。しかし、その選択はなされ、大義を選択したものが勝利を収めたのだ。
では、この大義と愛の選択というのは何を意味しているのか。それは、大義という集団的な観念を愛という個別的な観念を対立させるということである。そしてそれは誤解を恐れず大雑把に言えば、全体主義を個人主義に対立させるということである。
つまり、この作品は乱暴に言えば、全体主義的な思想に従うことで個人の幸せも手にすることができるという考え方に基づいているということを言っているということになる。これはネオコン化する近年のハリウッド映画に見え隠れするテーゼである。別にそれが陰謀であるとは思わないが。アメリカ全体がネオコン化する時代においてはハリウッドもそれに沿っていかなければならないということだ。
ただ、この映画は最初にも書いたように、実際に見えているのとは違っているのだ。それは個人のむなしい抵抗に過ぎないように見えるし、最後の最後でそれも覆されてしまうのだけれど、全ての人がただ闇雲に大義に従っているわけではないというかすかな希望を残しているというところにハリウッドにわずかに残った健全さを見るような気もする。
どうも今日のレビューは全体的に奥歯にものの挟まったような文章ですが、ぜひ映画を見て、その奥歯に挟まったものが何なのかを考えて下さい。