マンダレイ
2006/7/4
Manderlay
2004年,デンマーク=スウェーデン=オランダ=フランス=ドイツ=アメリカ,139分
- 監督
- ラース・フォン・トリアー
- 脚本
- ラース・フォン・トリアー
- 撮影
- アンソニー・ドッド・マントル
- 音楽
- ヨアキム・ホルベック
- 出演
- ブライス・ダラス・ハワード
- イザック・ド・バンコレ
- ダニー・グローヴァー
- ウィレム・デフォー
- ジェレミー・デイヴィス
- ローレン・バコール
- クロエ・セヴィニー
- ジャン=マルク・バール
- ウド・キア
1933年、ドッグヴィルを後にしたグレースは父親と共にアメリカ南部へ。そこで白人が黒人“奴隷”を鞭打つ光景を目にし、その荘園主に奴隷の解放を迫る。折りしもその時、荘園主の“ママ”は死に、グレースはギャングの力で黒人を解放、彼らに教育を施すためにその地にとどまる決意をする。
ラース・フォン・トリアーの“アメリカ三部作”の『ドッグヴィル』に続く第二部。主役はニコール・キッドマンからロン・ハワードの娘ブライス・ダラス・ハワードに。
この作品は『ドッグヴィル』と比べるとはるかに普通な作品になっている。確かに地面に文字が書かれたセットはそのままだし、従来の映画とはずいぶん違うものではあるけれど、観客は『ドッグビル』でその仕掛けにはすでに慣れているし、物語自体も前作と比べると受け入れやすい、わかりやすい物語になっている。
その物語はといえば、グレースが時代遅れの奴隷制を維持する村に出会い、その奴隷を解放し、彼らと領主の白人たちを教育していこうとするという物語である。しかしそれはうまく行かない。黒人たちは解放されたことを喜ぶどころか、何をしていいのか途方に暮れる。
単純に考えるなら、規則に縛られることになれてしまった彼らは規則がなくなってしまうと何をしていいかわからなくなり、考えるという習慣もないことからただ何もしなくなるということだ。
それをグレースは驚きの目で見つめる。自分が当たり前だと思っていたことが彼らには通じない。そこに見えるのはグレースの先入観である。抑圧から解放すれば黒人たちは自分に感謝するはずであり、土地が自分のものとなれば率先してそこから収穫を得ようとするはずであるという先入観なのである。しかし、彼らには自由がどのようなものであるかわからないし、土地を所有するということの意味もわからないのだ。他人に価値基準を押し付けられ、それにしたがって行動する意外になかった彼らには、自分のものを持ち、思想を持ち、自分の価値観にしたがって行動するという自由の意味を理解することができないのである。
そこでグレースは彼らを教育する。そしてそれはうまく行っているように見える。しかし、それは彼女の価値観の押し付けでしかないということに彼女は気づいていない。彼女の教育は新たな価値観を彼らに押し付け、彼らを別の隷属状態に追いやることでしかないのである。
そして彼らは逆に厳しいものではあったけれど安定はしていた生活を破壊したグレースに対する不信感を抱く。彼らはグレースがもたらした新しい価値観が役に立つかどうかを見極めようとしているのである。
これは結局何を意味するのか。まず思いつくのは武力で民主主義を押し付けるグレースと現代のアメリカの類似である。グレースがアメリカでマンダレイが第三世界の国であると考えるなら、図式は非常に単純になる。
しかし、話はそう単純ではない。グレースがアメリカであるようにマンダレイもまたアメリカなのだ。それは分裂した無数のアメリカのうちのふたつであり、それはドッグヴィルもまたそうであった。あるいは、アメリカ化した世界と考えるべきだろうか。アメリカが違う形でアメリカ化された社会に出会ったとき、逆にアメリカがそこに取り込まれてしまいそうになる。そのような現象のメタファーであるとするならば、それは希望だろうか?
この物語はグレースの完結しない逃亡で終わる。それはこの物語が何かを棚上げにしていることを意味している。グレースは結局何から逃げ、どこに行こうとしているのか。それが明らかになる第三部でこの三部作がもつ意味が明らかになることを願いたい。