暗夜行路
2006/7/9
1959年,日本,140分
- 監督
- 豊田四郎
- 原作
- 志賀直哉
- 脚色
- 八住利雄
- 撮影
- 安本淳
- 音楽
- 芥川也寸志
- 出演
- 池部良
- 山本富士子
- 淡島千景
- 千秋実
- 中村伸郎
- 仲代達矢
- 仲谷昇
- 杉村春子
- 岸田今日子
幼少の頃、母親が死にひとり祖父に引き取られた時任謙作は、祖父の死後はその祖父の妾であったお栄と二人暮しをしていた。そんな謙作は幼馴染の愛子の家に結婚の申し出を断られ、さらにお栄に対して悶々とした気持ちを抱くようになってひとり尾道へ旅出ることにしたが…
志賀直哉の原作を文芸映画の名手豊田四郎が映画化した力作。一人称で語られる謙作の苦悩が原作と同様にあふれ出すようで観客を圧倒する。
この映画で問題化されているものとはいったい何なのか。主人公の謙作の悩みは検索の視点からすると、幼馴染の愛子の家から縁談を断られた理不尽さと、祖父の妾であったお栄に対する悶々とした気持ちに始まる。しかも、どちらかといえばお栄に対する気持ちの方が影響が強かったのではないかと思う。一つ屋根の下に暮らす赤の他人である異性、その異性に対して感じる欲情、その当たり前の欲情が“祖父の妾”ということによって抑制されるその苦悩がまずあるのである。
それがまずあって、謙作は自分の出生の秘密を知る。その秘密を知るということがもたらすのは、ひとつには愛子との縁談がダメになったのが自分が理由ではあるが、自分ではどうすることも出来ない理由であることがわかることで、それについては吹っ切れるということがあった。しかし、もうひとつ、お栄との関係においてはよりいっそう苦悩が深まることになる。それは、自分の母親と不義の関係を結ぶような祖父(=実の父)の妾に自分が欲情を感じるということが、自分の中に流れる祖父の血(女ったらしの血)の証拠となると考えられるからである。謙作は何らかの形でこの関係、この欲情にけじめをつけないと自分がその血に押し流され、祖父と同じ運命をたどるのではないかと恐れるようになってしまったのだ。
私はそれが謙作の情緒不安定の主たる原因だったのではないかと思う。お栄に対する複雑な感情、それが強く謙作の心理に影響しているのではないか。この作品の中ではその情緒不安定の原因は掘り下げられず、梅雨のあたりに特にひどくなるなどという、事実ばかりを淡々と描写して行く。謙作は主人公であり、観客が同一化する対象であるはずなのに、どこかよそよそしい存在でもあり、その心の奥底に何があるのかをつかむことは出来ないという感じがする。
その結果、この映画は単にうじうじした男の日々を描いた物語でしかないものになってしまっている。観客は謙作に同情することは出来るかもしれないが、彼の苦悩を共有することなど出来ない。
だから、実際彼が抱える苦悩というものがいかようなものであるかということが、実はよくわからない。その苦悩の確信にあるのが祖父の存在であることは確かだ。謙作の母が祖父の子供を身ごもった詳しい原因は語られていないが、推測するに祖父が強引に関係を迫ったと考えるのが自然であろうと思う。強姦とまでは言わないまでも、抵抗できない種類の関係のあり方であっただろう。母と祖父の関係がそのようなあり方であっただろうことは、その関係が謙作の妻の直子とその従兄弟の要の間に反復されることによって暗示されているように思える。
謙作は自分がそのような強姦に限りなく近い関係によって生まれてきたということ、それが苦悩の根本的な原因となっているために、自分の妻が同じような関係を従兄弟と結んだことでさらに苦悩は深くなる。生まれた子供は計算上謙作の子供でしかありえないことで一応はその子供が自分と同じ運命をたどり、自分が父と同じ運命をたどるということは避けられたのだけれど、それでも検索の心の中にはもやもやとしたものが存在し続ける。
謙作の苦悩の本質とはいったい何なのか。直子は謙作が大山に旅立つ直前に何かがわかったようにいう。そのシーンでの山本富士子はまさに、パーっと雲が晴れたかのように表情が明るくなり、本当に何かが腑に落ちたのだということを表現していた。その山本富士子の演技は素晴らしいのだが、いったい何がわかったのかはいっこうにわからない。
私はこの作品でどうしても、この主人公に同一化できなかった。しかし、そのような主人公の描き方というのはこの作品に限ったことではないという気もする。コメディタッチの作品ではそのようなことはないが、文芸作品では、豊田四郎は必ずしも観客が主人公に同一化することを求めない。どこかで観客を突き放し、映画の主人公の視点と観客の視点を一致させないような操作が行われている。
そんなことを思いながら、原作を紐解いてみると、映画と同じく冒頭の祖父に引き取られて行くシーンこそ一人称で語られているものの、その後は全て謙作は三人称で語られていた。それはつまり、原作もまた視点を主人公の主観的な視点に一致させないということを意味する。だから、実はこの映画は原作にあまりに忠実に作られた映画なのかもしれないとも思えてくる。
そのような原作と映画との関係を考えると、豊田四郎という文芸映画を数多く撮った監督は、そもそも何故文芸映画を撮るのだろうかという疑問に突き当たる。彼は文芸映画を撮ることによって何をもくろんだのだろうか。自分が傾倒する文学作品を映画というわかりやすい縮刷版で人々に届けようとしたのか、それとも文学を自分なりに解釈しなおして、新たな芸術としてその形を観客に問うたのだろうか。
その結論を出すにはこの作品だけから考えるのは難しい。が、少なくともいえるのは、豊田四郎がもくろむのは、いわゆる巻き込み方のエンターテインメント作品ではないということだ。彼は文学作品が読者にするのと同じように、観客に考えさせるということをする。作品との距離を保つことで、観客を現実に留め、そこから映画の中の世界について考えさせるのだ。
そこからは彼が映画の娯楽化にかたくなに反対しているという事実が浮かび上がってくる。彼は映画が人々を別世界に導くジェットコースターと化して、現実から逃避させるのを拒むのだ。そのためには観客が主人公と完全に同一化することを避けなければならない。それは映画の持つ力、映像によって観客を別世界に引き込むという力を放棄することでもある。そのように映画が持つ力のひとつを放棄してでも、彼は娯楽化に抵抗する。
だから彼は文芸映画を撮り続けたのだ。文学の芸術としての魅力をそのまま映画に生かし、そこに芸術作品を生み出す。少なくともそのような意図があることは、この作品から感じ取ることが出来る。