更新情報
上映中作品
もっと見る
データベース
 
現在の特集
サイト内検索
メルマガ登録・解除
 
関連商品
ベストセラー

クラッシュ

★★★1/2星

2006/7/11
Crash
2004年,アメリカ,112分

監督
ポール・ハギス
脚本
ポール・ハギス
ボビー・モレスコ
撮影
J・マイケル・ミューロー
音楽
マーク・アイシャム
出演
サンドラ・ブロック
ドン・チードル
マット・ディロン
ジェニファー・エスポジート
ブレンダン・ブレイザー
ライアン・フィリップ
preview
 ある夜、交通事故にあったロサンゼルス市警の刑事のグラハムはその近くの現場で発見された死体を見て驚く。その前日、黒人の2人組が検事の車を強奪、その妻ジーンはパニックに陥る。ペルシャ人の店主ファハドは娘を伴って銃を買いに行き、警官のライアンは父の病気のことでクリニックに悪態をつく。
  クリスマスを間近に控えたロサンゼルスで、様々な人種の人々が差別と偏見に翻弄されるさまを描いたサスペンス・ドラマ。アカデミー作品賞を受賞した。
review

 この映画の明らかなテーマは“人種”である。白人、黒人、ヒスパニック、アジア人、ペルシャ人、それらの人々が互いに対して持つ偏見が人々の行動を狂わせ、運命を狂わせる。
  アメリカで人種についていうと、なんと言っても黒人に対する差別に意識が行くが、差別はそれだけではない。単純化すれば白人を頂点とするヒエラルキーが存在し、白人の下に黒人がおり、その下にヒスパニックやアジア人と言った人々が存在することになるわけだが、もちろん制度上はマイノリティと呼ばれる人々は一緒くたにされて、差別を撤廃するための優遇措置がとられている。
  そのような差別を撤廃するための動きは当然のことだし、これまでの歴史を見ればある程度の強制力がなければ差別というモノがなくならないことは明らかである。
  しかし、そのような対極的な、鳥瞰的な視点からでは見えない問題が無数に存在することをこの映画は示そうとしている。

 たとえば、マイノリティ同士の差別意識、最初の事故のシーンでアジア人の女性がヒスパニックの女性に向けて放つ侮蔑の言葉、それはマイノリティが差別を受ける側にとどまるのではなく、同時に差別する側でもあるということを如実に示す。そしてそれは「白人」や「黒人」という概念を持ち出すことによってより複雑になる。ドン・チードル演じるグラハムの恋人リアはグラハムが自分のことを母親に「白人女」と言ったことにショックを受ける。これは自動車泥棒の黒人二人組のもつ白人に対する偏見と根を同じくするものである。差別の主体としての白人に対する嫌悪、それが拒絶という形で表れるのである。
  そして、それはまた人種差別主義者である白人警官のライアンの意識とも関係してくる。彼は黒人を差別するが、それは彼のような“プア・ホワイト(あるいはレッド・ネック)”と呼ばれる白人によく見られる現象である。彼らは黒人が優遇されることによって直接的な不利益を受けてきた。それがいわゆる“逆差別”と意識され、マイノリティに対する反感を強めるのだ。
  あるいは、そのようなプア・ホワイトではなく、マイノリティに対する差別意識を持っていない(と周囲にも思われているし自分も思っている)ような白人であっても、どこかに差別の前段階ともいえる偏見を抱えているということも問題化されている。サンドラ・ブロック演じる検事の妻ジーンなどはそのような意識にさいなまれる典型的な人物であるし、人種差別的な同僚の行動に眉をひそめる警官のハンセンでもその呪縛から逃れられないということが映画のクライマックスで衝撃的な形で明らかにされる。

 いったいこれは何なのか、たとえば黒人に対する潜在的な恐怖心というようなものは“ネグロフォビア”と名づけられ、社会的なシステムの問題と定義されるが、そのように言葉によって定義することにどのような意味があるのか。結局、偏見や差別という問題が表面化するのは個人のレベルである。人種の異なる人同士が1対1で向き合うとき、そこには生の偏見や意識が現れる。それは人間が他者に対して持つ普遍的な恐怖が人種という社会的な異化によって増幅されたものである。例えばある白人の女が黒人の男に出あった時には、「黒人は乱暴である」という刷り込みによって白人の女は白人の男に出あった時よりも強い恐怖を覚えてしまう。
  それはもちろん人種以外の要素でも起こりうることだ、例えば相手が大きいとか顔が怖いとか。しかし、人種という要素が特に顕著なものとして浮かび上がってくるのは、それが「理解できないもの」に対する恐怖とつながっているからだ。人間は他者の中でも特に理解できない他者に恐怖を覚える。それは相手が何をするかわからないからだ。そして、見た目が自分とかけ離れているものほど「理解できない」と考えがちである。だから、見た目が自分とは異なる違う人種の人間に対して恐怖を強く覚えるのである。その原理が歴史によって増幅され、人種と人種の間に産めることのできない溝を生み出してしまった。

 だから、個人のレベルにおいてもそれは根深く残ってしまう。しかし、この映画はそこで突き放すことはしない。その溝を埋める可能性も個人のレベルにはあるということを何とか示そうとしているのだ。それが端的に現れるのはペルシャ人の店主ファハドのエピソードである。彼が経験したような“奇跡”がその溝を埋めるのだ。
  しかし、この物語全体はそのような“奇跡”を完全には信じていない。それで全てがうまく行くなどという絵空事を唱えはしない。だからこそこの作品の結末にはどこか空虚な絶望が残る。人種とは関係なく、人と人とは結局は完全に理解しあうことはできない。そのような当たり前のことに対する諦めがそこにはあるように思えてならない。

Database参照
作品名順: 
監督順: 
国別・年順: アメリカ2001年以降

ホーム | このサイトについて | 原稿依頼 | 広告掲載 | お問い合わせ