現金に体を張れ
2006/7/15
The Killing
1956年,アメリカ,85分
- 監督
- スタンリー・キューブリック
- 原作
- ライオネル・ホワイト
- 脚本
- スタンリー・キューブリック
- 撮影
- ルシアン・バラード
- 音楽
- ジェラルド・フリード
- 出演
- スターリング・ヘイドン
- マリー・ウィンザー
- コリーン・グレイ
- ヴィンセント・エドワーズ
ある日の競馬場、初老の男がバーテンダーや切符係にメモを渡す。実は彼らは大規模な現金強奪計画を練っていた。そのリーダーであるジョニーは刑務所から出たばかり。同じつかまるなら大きなヤマがいいと考えて仲間を集めたのだが…
スタンリー・キューブリックがライオネル・ホワイトの『見事な結末』を映画化。スピード感と時間の操り方がまさに見事。
映画の最初からしっかりとナレーションが入る。しかもそれは登場人物のモノローグではなく、いわゆる「神の視点」からのナレーションで、起こることのすべてを把握した上でのナレーションになっている。したがって観客は純粋に観客としてその出来事を楽しむことができる。ただ、その視点はジョニーと仲間の側に常にあり、犯罪者である彼らの側に観客を置いておくことは忘れない。
それを把握した上で、この映画の時間の使い方を考えてみると、それは非常に巧妙だ。『刑事コロンボ』に代表されるような「神の視点」の使い方、つまり主人公が知らないことを観客に知らせることで、主人公の謎解きを観客に楽しませるようなやり方とくらべるてみると、その面白さが際立ってくる。「コロンボ型」はいわばジェットコースターのようなもので、最終的に行き着くところが決まっていて、そこにいたるまでに何が起こるのかというのを楽しむものだ。それに対して、この映画というのは一つ一つピースがはまっていって、最後に全体像がわかるというジグソーパズルのような映画なのだ。
自分の頭の中で一つ一つの断片を組み立てていって一つの全体像を作る、というのは結構知的な作業で楽しい。それに加えて事態がどのようになっていくのかということを予想する。ジョニーたちの側に立ちながら、計画の全貌がわからないという立場におかれ、しかし起こっていることはすべてわかるという特権的立場にある。そんな観客の立場の作り方が本当に見事だ。
このようにして時間を使う映画はこの映画以後たくさんあらわれた。この映画が元祖かどうかはわからないが、タランティーノはこの映画に影響を受けて『レザボア・ドッグス』を撮ったというのだから、ある種カノン化しているといってもいいのだろう。
カノンとか名作とかいってしまうと、なんかつまらなそうな感じだが、50年のときを経てもこの映画は非常に面白いし、スリリングである。それはやはりこの映画の次官の操作の使い方が非常にうまいからだろう。
映画を見る観客にとって時間とは一方的に押し付けられるものでしかありえない。映画の長さは決まっており、好きなスピードで見ることはできないのだから当たり前だ。多くの映画は観客を映画の中の擬似的な時間に引っ張り込んで、擬似的な1日とか1年とか100年とかを過ごさせる。それが「まっとう」な時間の使い方だ。
この映画が実現したことは観客が映画の時間から一歩退いて、自分の時間の中で映画の時間を取り扱えるようにするという方法である。この方法は映画を知的に面白くするのに非常に有効で、『メメント』なんかがそのきわみということになるが、映画にとって時間とどう渡り合っていくかというのは非常に重要なことだと思うので、キューブリックのやったことというのは映画におけるある種の革命だったのではないかなどと考えてしまう。
これは非常にシンプルだけれどほぼ完璧な犯罪映画ではないか。この映画にはおもしろい犯罪映画のミニマムな要素が全て詰まっており、余計なものは何も付け加えられていない。
犯罪を計画する一味の個性、主犯格のプロのジョニー、気弱な切符係、妻想いのバーテンダー、人生に飽きた会計係、ジョニーが雇うプロたち、彼らの個性がこの犯罪にリアリティを与える。
目的はただひとつ金を奪うことだけ。そこに存在する謀略、裏切り、隠された意図… それはそれぞれの欲望の表れである。その犯罪と欲望に加えて悪女が現れて、この映画は完全になる。そこに一味とは別の意図が入り込み、歯車が狂ってゆく…
そして、平衡する時間を見事に組み合わせ、構築したプロットの見事さ。基本的には時間軸どおりにすすむのだが、それぞれの人物が主人公となる時間を別々に追って行くことによって時間を行き来する感覚を与え、ひとつのシーンを別の角度から見せもする。それによって観客は全体像をつかみ、それぞれの登場人物の意図が絡み合って生まれる結果にハラハラするのだ。
この映画については本当にいうことがない。ストーリーテリングの美しさ、それぞれのシーンの美しさ、それはトラックを走る馬の美しさと呼応しているようでもある。そしてまた、競馬場という場が持つ希望のむなしさ、競馬という賭け事と犯罪という勝負の類似、どんなに綿密に計画しても犯罪という勝負は競馬と同じように運に左右されてしまう。
そして、その結果得たお金にはどのような意味があるのか。賭け事によって得たあぶく銭、犯罪によって得た欲望にまみれたお金、そこには重みの違いがあるようだけれど、その全てが実は虚しいということをこの作品は示す。
『現金に体を張れ』、お金には果たしてそれだけの価値があるのか。この作品は基本的にエンターテインメントであるが、徐々に思想性を高めて行くキューブリックの作風の萌芽も見ることが出来る。