青い魚
2006/7/19
1998年,日本,60分
- 監督
- 中川陽介
- 脚本
- 中川陽介
- 撮影
- 菅原一剛
- 音楽
- 渋谷慶一郎
- 出演
- 大内まり
- 平敷慶吾
- 玉城乃野
- 桃原未有希
- 比嘉秀作
那覇の小さな美容室で働く涼子は向かいの部屋に越してきたらしい怪しい雰囲気の男に目を引かれる。その男・和也は中国マフィアとつながりがあり、危ない橋を渡っていた。しかし和也に魅かれる涼子は何とか接触しようとするが…
那覇を舞台に作品を撮り続ける中川陽介のデビュー作。日本映画というよりはアジア映画的な雰囲気がおもしろい。
この60分の短い映画はその冒頭のおよそ5分をほとんど登場人物もはっきりしない風景の映像にあてる。古ぼけた建物、熱帯じみた植物、それらアジア的な色の濃い沖縄の風景を短い映像の積み重ねとして提示するのである。
これはこの映画が決定的にイメージの映画であることを宣言するシークエンスである。小津が必ず風景から映画をスタートするように、物語の導入としての風景を利用するのならば、そのために必要なの数カット、1分足らずのシークエンスであるはずである。この作品の不必要な長さが示すのは、この映画が何かを物語ろうとする映画ではないということだ。
そして、それを実証するかのように物語が始まってもものを語るべきものである言葉は少なく、引き続きイメージが語られ続ける。言葉が重ねられるのは映画の中心にある涼子と和也の係わり合いの部分ではなく、涼子にとっての現実の世界である友人たちとの関係の部分のみなのだ。涼子と和也の係わり合いはずっとイメージのみで語られ、そこに物語を始めようとする涼子を果てしなく拒否する。
そして、そこに浮き上がってくるイメージこそ、アジアと日本が交錯する地点としての沖縄のイメージである。涼子の出自は明らかになっていないが、見た目も言葉遣いも明らかに内地の人間のものである。それに対して和也はその出自が台湾にあることが明確に明らかにされる。日本と台湾が沖縄という場所で出会う、二人の出会いはまさにこの作品が表現しようとする沖縄のイメージと重なり合うのだ。
だから、この作品にはイメージの表現が豊富であり、じっくりと時間をかけてそのイメージを掴み取ろうとしている様子が見える。物語は決してそれには追いついてこない。
それはそれでひとつの表現ではあると思うが、やはり退屈な部分もある。イメージというのは見る者に押し付けることができるものではない。見る側になにか呼応するものがなければ、そのイメージは見るものを捉えないのだ。多くの日本人はアジア的なものにどこか惹かれるし、それを多少薄めたこのようなイメージに何か「懐かしい」とか「魅惑的」といった感情を感じる日本人は多いだろうから、誰もがそれなりに感じるものがあるとは思う。
しかし、この作品はそれに囚われすぎているという印象もある。同じようなものを想起させる散文的なイメージの羅列はそれが魅惑的なものであってもどこかで退屈さをも含むものなのだ。
この作品ではエンドクレジットで那覇のスチルイメージが流される。それはこの映画がやはり純然たるイメージの映画であったということを再確認させると共に、映画というものがそもそもイメージの産物であったということを思い出させる。映画が写真から派生したものと考えるなら、それは純然たるイメージたる写真に物語を付け加えたものと考えることが出来るからだ。
この作品は日本人の出自たるアジアを思い出させると共にそのような映画の出自をも思い出させる。この作品がひとりの監督の処女作であることを考えると、彼は一人の日本人として、そして映画人としてその出自に立ち返り、沖縄という場所を発見し、ひとつの物語を語り始めたのだということができるのかもしれない。
イメージからはじめて、物語へと歩を進める。アジアからはじめて、日本へと歩を進める。彼の物語がこれからそのようにすすむとしたら、その物語は非常におもしろいものになるかもしれない。