米
2006/7/24
1957年,日本,119分
- 監督
- 今井正
- 原作
- 八木保太郎
- 脚本
- 八木保太郎
- 撮影
- 中尾俊一郎
- 音楽
- 芥川也寸志
- 出演
- 江原真二郎
- 中原ひとみ
- 中村雅子
- 望月優子
- 木村功
霞ヶ浦の小さな農村、その農家の次男坊である次男は東京での仕事に嫌気が差して故郷に帰ってきたが、そこに居場所はなかった。そんな次男は村の若者たちと隣村に娘たちを冷やかしに出かけ、そこで見かけた不幸な境遇の千代を見初める…
今井正が農漁村の人々の苦しい生活をリアルに描いた意欲作。
この映画の舞台は霞ヶ浦あたりである。今では茨城なんて東京の近く出し、それほど田舎という印象ではないが、この映画をみると、言葉はまったく違うし、そこに暮らす人々は農業や漁業で細々と暮らしを支える貧しい人たちである。
とくに、この方言の聞き取りにくさには本当にまいる。もちろん話していることの意味はわかるのだが、それを聞き取るにはそれなりの集中力が必要になる。この作品のように方言をそのまま使った(特に昔の)映画はその言葉を聞き取り、意味を理解するのに苦労することが多い。この作品はまさにそれで、ボーっとみていると、言っていることの意味を捉え逃したりもしてしまう。
このような作品を見ていつも思うのは、今よりも方言の開きが大きかったこの時代に、例えば九州や四国の人にこの言葉が理解できたのだろうかということだ。東京や東北あたりならば、それほど言葉の開きは大きくないが、西日本の言葉と、この北関東の言葉の間には大きな開きがあるのではないかという気になる。
映画の内容のほうは、貧しい農漁民の苦労を描いた作品という感じであり、そのような苦しい生活の中でも若者は恋をし、力強く生きて行く。しかし、社会は彼らの見方をしてくれず、生活は苦しいまま続いて行く、という感じ。今も世の中に貧しい人は多いが、この作品に描かれているようにひとつの階層が丸ごと生きるか死ぬかというほどに貧しいという現実は今では想像しにくくなっている。
物語としては、それほど心を打つものであったり、新鮮なものではないが、このような現実があったということの記録、そのような時代を思い出す(経験していないとしたら想像する)ための材料としては非常に意味があるものである。それはただ単に、歴史を記憶にとどめるというだけでなく、世界を視野に入れた場合、このような生活を強いられている人々は決して少なくないのだということを想像するという意味でも重要である。
私たち日本人は苦しい時代を経て、今の豊かな生活を手に入れた。人によっては「どこが豊かなんだ」とも思うだろうけれど、昔のもっと苦しい生活を、あるいは世界のもっと貧しい人々の苦しさを想像することができれば、自分たちの豊かさを身にしみてわかる。そのような想像力は非常に重要なものなのだ。
この作品は、その苦しさを日本人という単位での経験として私たちに提示してくれる。そのようなものとして非常に意義深い作品として今でも見る価値があるのだと思う。
そしてまた、望月優子演じるよねの苦悩は貧しさと社会というものを考える際に常に浮かび上がってくる普遍的な苦悩である。社会のシステムに従っていてはいつまでもその貧しさから浮かび上がれないという苦しさ、悔しさ。それが陥れる不幸は人々をあるときは犯罪に駆り立て、ある時は自らの命を絶つという選択肢を否応なく選ばせる。
それは豊かな生活に胡坐をかいているわれわれが想像力を発揮して、考えなくてはならない問題だ。あるひとつの国の内部でも、世界という単位でも、その問題は今も根深く残っている。
物語としては退屈ではあるが、この苦しさは見るものにいろいろなことを考えさせる。