16歳の合衆国
2006/8/3
The United States of Leland
2002年,アメリカ,104分
- 監督
- マシュー・ライアン・ホーグ
- 脚本
- マシュー・ライアン・ホーグ
- 撮影
- ジェームズ・グレノン
- 音楽
- ジェレミー・エニック
- 出演
- ライアン・ゴズリング
- ドン・チードル
- ジェナ・マローン
- クリス・クライン
- ケヴィン・スペイシー
- ミシェル・ウィリアムズ
16歳の少年リーランドが手に怪我をして帰ってくる。彼は知的障害を持つ少年ライアンを刺殺してしまったのだ。ライアンはリーランドの恋人ベッキーの弟で、リーランドはライアンと仲良くしていた。ライアンの一家が衝撃を受ける中、リーランドは矯正施設に収容される。
実際にロサンジェルスの矯正施設で教員をやっていたマシュー・ライアン・ホーグが自身の体験を基に脚本を書き、監督した作品。
この作品の原題は『リーランドの合衆国』であり、それは矯正施設に入ったリーランドが与えられたノートの表紙にあった“United State”という文字に続けて“of Leland P. Fitzgerald”と書いたことから来ている。そして、これこそがまさにこの作品の全てを象徴的に表していると言ってもいい。
とはいっても、決してこの映画は「アメリカ合衆国」に対する賛美や忠誠心を描いたものではない。そもそもこの作品で使われている「合衆国」という言葉は「アメリカ合衆国」とイコールではない。ここでいう「合衆国」とはつまり、バラバラのものがひとつになっている状態を象徴的に表しているのだ。そして、それが人間の心の暗喩として機能する。
この構造は非常に分かりやすい形で映画に表れている。リーランドもパールもそしてカルデロン夫人も“断片”という言葉を口にする。人間を構成する断片、それは人間という「合衆国」を構成するひとつの州なのである。
では、この対比は何を意味しているのか。まずいえるのはそこに有る不安だろう。自分が断片化されていることの不安とアメリカという断片化された国の不安、それが並置されることでアメリカ人みなが抱える“不安”の“理由”を明らかにしようとするのだ。
物語の終盤でリーランドはパールに「あなたなら(自分がライアンを殺した)理由を見つけることができるかもしれない」という。その理由とはありていに言えばおそらくライアンとそして自分を「不安から解放する」ということだろう。不安に満ち満ちた国と社会から身を引き剥がすこと、それがリーランドにとっての善なのである。
そのような想いを募らせる上で重要な役割を果たすのがカルデロン夫人である。子供の頃に偶然であった安心感の象徴のような夫婦、その夫人であるカルデロン夫人が離婚を経験し不安にさいなまれているという事実、そしてカルデロン夫人がいう「人間は断片の総和より大きい」という言葉、それが彼の善を呼び起こしたのである。
しかし、私はどうもこの物語、コンセプトの全体に共鳴することができない。リーランドとアメリカ国民が抱える断片化の不安とはつまり外部から他者が侵入してくることに対する不安である。そして、ライアンはその他者の侵入を拒むことが出来ないがゆえに、そこから救うことが善であるという考えなのである。リーランドはそれを後悔しているというが、ならばライアンはどのようにして救われるべきだったのか。「歌を歌って」という言葉しか発せず、しかも歌を歌うとそれを嫌がるライアン、彼は外部とのつながりを求めながら、他者が侵入してこようとするとそれを拒否するアメリカの人々そのものではないか。
ライアンを救うこととはすなわちアメリカを救うことなのだ。リーランドにその方法が見つかるはずはもちろんなく、誰にも見つけることなどできない。不安は再生産され続け、憎しみにつながり、善は押しつぶされる。
この映画に登場する他人の心を踏みにじることで不安と憎しみを再生産し続ける人々の群れに私は我慢できない。彼らがするべきことはただひとつ人を信用することではないのか。信用にはもちろん不安と犠牲が伴うが、不安の絶え間ない再生産に悩まされるよりは、犠牲を払いながら小さな不安を抱え続けながら信用という安心にすがり付いているほうがましではないか。
ただ、今の日本でこの映画を見ることには意味が有るはずだ。それは日本が今、激しくアメリカ化しているからである。人々は不安の再生産に苛まれている。そして人々はそれは社会のせいにする。しかし、本当にそうだろうか。私たちを不安に陥れている他者とは本当に理解不能な他者なのだろうか。
他者を作り出すのはそれぞれの個人の心なのである。