ナイト・ウォッチ
2006/8/10
Nochnoy Dozor
2004年,ロシア,115分
- 監督
- ティムール・ベクマンベトフ
- 原作
- セルゲイ・ルキヤネンコ
- 脚本
- ティムール・ベクマンベトフ
- レータ・カログリディス
- 撮影
- セルゲイ・トロフィモフ
- 音楽
- ユーリ・ポテイェンコ
- 出演
- コンスタンチン・ハベンスキー
- ウラジーミル・メニショフ
- マリア・ポロシナ
- ガリーナ・チューニナ
- ヴィクトル・ヴェルズビツキー
- マリア・ミローノワ
- ディマ・マルティノフ
人間の中には“異種”と呼ばれる特殊な能力を持つ者がおり、彼らは“光”と“闇”に別れ抗争を続けていた。今から1000年前、橋の上で激突したふたつの勢力は、このままだと互いが全滅すると察し協定を結ぶ。以後、異種に目覚めた人間は光と闇のどちらに入るのかを選び、闇の行動は“ナイト・ウォッチ”と呼ばれる光の監視人が、光の行動は“デイ・ウォッチ”と呼ばれる闇の監視人が監視することとなった…
ロシアで興行記録を塗り替えるヒットを記録したファンタジー大作。3部作で作られる第1作。
ファンタジーで3部作、しかも異界を描いた作品ということで、『ロード・オブ・ザ・リング』を思い起こさせるし、その描かれる世界の暗さなどもそれに近いものがある。しかし、この作品は基本的に子供向けのファンタジーではなく、大人向けのファンタジーである。『ロード・オブ・ザ・リング』も大人でも楽しめる世界ではあったけれど、子供も没入できるように作られていたが、この作品は基本的に子供を拒否しているように思える。子供にはこの世界は怖すぎるし不気味すぎるのではないかと思うのだ。
そして、この作品は“光”と“闇”の対決をテーマとしているわけだが、そもそも非常に暗く、つねに“闇”が付きまとっているように思える。これはロシアという国の持つ暗さとも関係しているのかもしれないが、“光”の側にいる者も基本的には闇を抱えている。それはもちろん彼らが“異種”という他者であることに起因しているわけで、すでに人間世界から疎外されている彼らには常にどこかで暗さが付きまとう。
だから“光”と“闇”に分かれた彼らは完全に憎しみあう敵対関係にあるというわけではない。対立する前に“異種”という仲間であり、そこに少なからぬ仲間意識が存在していることも確かなのだ。
この複雑さは、単純明快な二項対立に物語をもっていきがちなハリウッド映画とは違っておもしろい点ではある。彼らは対立し、世界を巡って争っているけれど、しかし彼らは何のために争っているのか。“闇”が勝ったらどうなるのか、“光”が勝ったらどうなるのか。“光”は人間を守り、“闇”は人間を殺すのか。その辺りが不明瞭なのはストーリーテリングの拙さともいえるが、深みであるともいえる。
これがハリウッド映画であったら、人間の視点から彼らがどのような存在なのかを明らかにし、“光”の側に同一化できるようにプロットを組み立てるはずだ。しかし、この作品では主人公のアントンがどちら側に属するのか最初はわからないし、彼が“光”の側に属するとわかっても、彼が人間に味方するものなのかどうかわからないのだ。そして“闇”の側にも魅力があり、それが見方を混乱させる。
この曖昧さというか観客の見方を混乱させるやり方がこの映画のおもしろさであり、同時に弱点でもある。ハリウッドのわかりやすい映画にならされてしまった観客にはわけのわからない映画に映るし、映像やアクションだけで観客をひきつけるには安っぽすぎる。しかし、ロシアはエイゼンシュタインにはじまる偉大な映画作家の国であり、独特なSF文化も生んできた国なのだ。その国に生まれ育った人々にとってはこの世界観が非常に魅力的なものなのだろうということも想像に難くない。
確かに「おもしろい!」という作品ではないが、この先の展開は気になる。しかし、マーケティング的にはファンタジーともいえないし、アクションともいえないし、位置づけが難しくヒットしにくい映画という気もするので、今後果たして公開されるかどうかも怪しい気がする…