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軍旗はためく下に

★★★★星

2006/8/19
1972年,日本,97分

監督
深作欣二
原作
結城昌治
脚本
新藤兼人
撮影
瀬川浩
音楽
林光
出演
丹波哲郎
左幸子
三谷昇
ポール牧
中村翫右衛門
preview
 昭和46年の終戦の日、富樫サキエは陸軍軍曹だった自分の夫が昭和20年8月に軍法会議により処刑されたという記録に対する疑問をぶつけに今年も厚生省へと向かった。毎年申し立てをする彼女に根負けした厚生省は、富樫と同じ部隊だった人々と連絡をとり、その中で返事が無かった人の名前と住所を彼女に教えた。
  26年という歳月を経てから戦争を振り返り、直木賞を受賞した同名小説の映画化。脚本に新藤兼人、監督に深作欣二という強力なコンビで力強い作品を生み出した。中年女性のエネルギッシュさを表現した左幸子も見事。
review

 断られても、断られても、毎年毎年あきらめずに厚生省へと出向く主人公のサキエが口癖のようにいうのが次の言葉だ。
  「父さんが浮かばれない」
  この言葉は終戦の年の8月に敵前逃亡罪により軍法会議で有罪になったという夫の死に納得出来ないがゆえに出た言葉だ。彼女がまず考えたのは夫が戦友たちと同じように英霊の列に加えられないことへの疑問だった。そして、さらに彼女をいらだたせるのは夫の死が実際にどのようなものであったのかということについての疑問だ。夫がどうして有罪になり、どうして殺されたのか、それがわからないないというのでは納得できないということである。だから、彼女の行動の本当の理由は自分が納得するためなわけだが、彼女にとっては自分が納得して、夫の死を受け入れて初めて夫は浮かばれるのであり、それが住むまでは「父さんが浮かばれない」となるわけだ。
  つまり、「本当のことがわからなければ父ちゃんは浮かばれない」と彼女が言うは真実ではない。彼女は決して本当ことを知りたいのではない。自分の夫が恥ずべき人間ではないということを証明したいだけなのだ。
  具体的に彼の死までの過程と事実が明らかになってみると、戦争がすでに終わっていたという問題はあるが、彼は軍法会議を経ようと経まいと軍隊の中では死刑に値する罪を犯したことは確かだ。彼女が組み立てた真実によれば彼は恥ずべきことはしていないが、それに何の意味があろう。寺田上等兵がいうようにあそこで死んだ人はみな戦死なのである。彼らは日本軍によって死地に追いやられ死んだ。それが戦死でなくて何なのだろうか。
  結局ここで問題になっているのは、軍法会議で有罪になった戦没者は英霊の列に加えられないし、遺族に年金も支給されないということだけなのかもしれない。軍国主義の日本がゆがんだものであり、その遺制を拭い去って新たな体制を築いたのに、その体制によって裁かれた人々が復権されないということに矛盾があるのだ。
  もちろんそのことには憤りを感じるが、問題はそれだけにはとどまらないのではないかと私は思う。ここで問題とされているのは富樫が弔われないということだけだが、その背後にはこの戦争の全ての死者に対する弔いの問題がある。弔うとはつまり、その死を悼み、生き残ったものがそれを受け入れるということだ。
  しかし、われわれは、日本という国は、本当に彼らの死を受け入れることが出来ているのだろうか。
  この映画の結末は悲しい。それは生き残った者の悲しみである。生き残った者が死者の重みに押しつぶされてしまう。要領のよいものは戦争が終わっても自分の保身に努め、嘘をつき、その嘘はいつか自分をもだまし、記憶は書き換えられ、平気で新しい人生をはじめるが、正直な者は自分が戦場でやってきたことを思い出したくないという心理に押しつぶされ、その重みを引きずって生きていかざるを得なくなってしまう。そして、彼らは自分を守るために真実を忘れ、心の底に押し込めようとする。そのようにして真実は曖昧になって行ってしまう。寺田上等兵がいう「本当のことなんて誰にもわからない」というのは真実なのだ。戦場とはそのようなところなのである。その記憶を持ち続けることはつらくて耐えられないそのような場所だったのだ。そしてそのことが死者たちの死の原因を、その責任の所在を問うことをためらわせた。この映画が描いているのは、そのようにして避けられてきた「真実」を明るみに出そうという努力のひとつの例なのである。
  戦後の日本という国と日本人たちは、兵士たちのそんな思いに便乗して、死者たちを忘れてしまった。身近な人を亡くした人々も周囲の圧力と日々の生活によって、少しずつその死を自分たちだけで抱えるようになって行った。それでうまく言っているかのように見えたが、時折この映画の物語のようなひずみが噴出してくる。従軍慰安婦の問題などもそのひとつの例だ。忘れられた者たちの声が蘇り、われわれに訴えかけてくるのだ。
  戦後、日本は敗戦を乗り越えたかのように見えた。戦争の傷跡を修復し、戦争問決別したかのように思えた。しかし実際は、戦争の残した傷跡は見えないところにいつまでも残り、ことあるごとにその覆いを払って顕れて来るのだ。戦争を知らない世代がどんどん増え、日本人は着々と戦争を忘れていくが、日本という国が戦争を忘れることは決してない。いまだ戦争が残した傷跡は刻まれたままであり、それを修復することなしに胸を張って「戦後は終わった」と宣言することは出来ないのだ。
  あの戦争で死んだ人々の死に意味があるとしたら(もちろん意味が無ければ困るのだが)、それは彼らが傷跡を残し、私たちはそれを修復し続けるという関係にあるということなのかもしれない。日本の戦後の歴史は、戦争によってつけられた傷跡を修復していくことによって進んで来た。彼らが命を賭けてやろうとしたことが失敗したということ、それこそが戦後日本の出発点なのである。つまり、私たちは彼らが失敗したその無念をひきうけつつ、その無念を晴らしつつ、先に進む。本当に報国という言葉を信じて死んで行った人々も、自分の行為が報われなかったと知ったら、その胸に無念を抱くだろう。私たちはその無念を晴らすことでその死に報いるのではないか。その意味では、サキエが見つけた真実というのも、ひとつの死に対する報いである。それが本当に真実であるかどうかという問題ではなく、それによって彼の生に意味が与えられるという意味において彼の無念は晴らされ、彼の死は報いられるのだと思う。
  この映画は、死者にどう報いるのかという問題のひとつの解答例を示しているのだ。私たちが前に進むには、その時々に顕れる傷跡をひとつずつ、このサキエのように、修復して行くしかない。“英霊”と奉り、個々の無念にふたをしてしまうだけではこぼれ落ちてしまうものがたくさんある。したがって、ひとつの神社に戦争で死んだ人々(全てではない)の魂を一緒くたに集めて、その死を弔うということには問題がある。この映画を見ていると、どうしてもそのような思いに囚われる。

Database参照
作品名順: 
監督順: 
国別・年順: 日本60~80年代

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