ミュンヘン
2006/8/29
Munich
2005年,アメリカ,164分
- 監督
- スティーヴン・スピルバーグ
- 原作
- ジョージ・ジョナス
- 脚本
- トニー・クシュナー
- エリック・ロス
- 撮影
- ヤヌス・カミンスキー
- 音楽
- ジョン・ウィリアムズ
- 出演
- エリック・バナ
- ダニエル・クレイグ
- キアラン・ハインズ
- マチュー・カソヴィッツ
- ハンス・ジシュラー
- ジェフリー・ラッシュ
- アイェレット・ゾラー
- ギラ・アルマゴール
1972年ミュンヘン・オリンピックでイスラエル選手11人がパレスティナのゲリラ“黒い九月”に拉致される事件がおきた。結局ゲリラ、人質の全員が死亡する悲劇となった。イスラエルの諜報機関モサドはこの報復としてこの組織にかかわる11人を暗殺するためアヴナーを中心とした暗殺チームを組織する…
スピルバーグが暗殺部隊の元メンバーの告白を元にしたノンフィクションを映画化。『シンドラーのリスト』に続き自身のルーツであるユダヤをテーマ化した。
これはシンプルなメッセージを運ぶ映画だ。復讐の連続によって平和が訪れることはないと。
しかし、その根本的な解決については懐疑的だ。イスラエルの人々は自らの“土地”を手にしたことを無上の喜びとし、決してそれを手放そうとはしないだろう。そしてその代わりにパレスティナ人たちを「国のない人々」と呼ぶのである。このようにイスラエル人が考えている限り永遠に平和は訪れない。劇中でアリが言うようにパレスティナ人は50年でも100年でも永遠でも待ち続けるだろう。そして、自分たちが待ち続けていることを世界に知らしめるためにテロを続けるだろう。
テロとはメッセージなのだということもこの映画は語る。“黒い九月”の行動はパレスティナ人がイスラエルの暴力を世界に知らしめるためのメッセージであり、アヴナーたちの行動はイスラエルがテロには屈しないということのメッセージである。もちろん彼らの行動は建前上はイスラエルと直接には関係ない。しかし、イスラエルの意思で行われることは明らかなのである。
このテロの連鎖は永遠に終わらない。レバノンのヒズボラががイスラエル兵2人を拉致したのは、イスラエルに捉えられている政治犯の存在を世界に知らしめるメッセージであり、イスラエルの空爆はヒズボラがテロ組織であるということのメッセージである。だから、テロの結果とは相手にどれほどのダメージを与えたかよりも世界にどのようなメッセージを送ることができたかのほうが大事なのだ。だからアヴナーたちは銃による暗殺よりも爆破を選び、本当に危険な人物よりも高名な人物を狙う。
このテロ合戦の中心にいるアヴナーとは何者なのか。彼はまさにイスラエルそのものである。彼は自分が狙われているということを知ったときに愕然とする。それは彼が自分自身がやっていることを敵側もやっているということを想像できないからだ。彼が敵の情報をつかめるなら敵も彼の情報をつかめる。そんな簡単なことが想像できない。それはイスラエル人がパレスティナ人がなぜ執拗にイスラエルを攻撃するのかを想像できないのと似ている。パレスティナ人たちは依然イスラエル人たちが味わっていた土地のない苦しみを味わっているにもかかわらず、彼らの苦しさを想像しようとしないのだ。
その彼が最後には自分がミュンヘン事件の実行犯であるという白昼夢を見る。それは彼がパレスティナの人たちのことを想像できるようになった問うことだ。それは激しい苦しみを伴うものであるが、それによって彼は祖国と徹底的に決別し、イスラエルという国家を超えたところにあるユダヤ教の本質的な教えに回帰したのだと思う。彼が最後に“遠来の客をもてなす”というユダヤ教の教えをわざわざ口にするのはそのためだ。
そう考えるとスピルバーグはこの映画によってイスラエルという国家がユダヤ教の本来的な教えから離れてしまっているということを主張しているのではないかとも思える。それは同時に中東の抗争はユダヤとムスリムの戦いであると考えられているが、そうではなくイスラエルとアラブの領土争いなのであると主張することにもつながる。彼は宗教を口実に殺し合いを続ける人々に嫌気が差したのか。
ただこの映画には置き去りにされていることがある。それはアメリカとイスラエルの関係である。イスラエルを非難することは簡単だが、イスラエルの最大の支援国はアメリカである。しかしこの作品はアメリカを非難することはしていない。もちろんこの事件の当時の状況は現代とは異なっている。しかし、いまこの映画を作るなら、アメリカのことを語らない(CIAは少しだけ登場するが)のは片手落ちなのではないか。
この作品ではスピルバーグのストーリーテリングのうまさが戻ってきたようで非常にスリリングで面白いのだが、メッセージ性の強い映画として作ってしまった以上、そのあたりのつめが甘い(甘くせざるを得なかったのかもしれないが)のはどこか物足りなさを感じる。