更新情報
上映中作品
もっと見る
データベース
 
現在の特集
サイト内検索
メルマガ登録・解除
 
関連商品
ベストセラー
no image

歌行燈

★★星星星

2006/9/10
1943年,日本,93分

監督
成瀬巳喜男
原作
泉鏡花
脚本
久保田万太郎
撮影
中井朝一
音楽
深井史郎
出演
花柳章太郎
柳永二郎
大矢市次郎
伊志井寛
山田五十鈴
preview
 能楽師の恩地源三郎の養子喜多八は将来を嘱望される才能の持ち主、彼らと兄弟弟子の次郎蔵は名古屋での公演を終えて伊勢に向かう途中、電車の中で客の一人に彼らの謡いは伊勢にいる宗山という素人名人にはかなわないと言われる。源三郎は打っ遣っておけというが、若い喜多八は我慢ならず、宗山のところにその咽を聞きに行く。
  成瀬が戦時統制化の中でとった“芸道もの”のひとつ。花柳章太郎が見事な咽と舞を見せるのが最大のみどころか。。
review

 この作品が作られたのは昭和18年、戦況もいよいよ窮し、挙国一致体制がひかれ、戦時統制が強まった時期である。その統制はもちろん映画界にも及び、成瀬もその影響を受けた。成瀬の芸道ものは日本の伝統芸能のを題材とすることで、日本の伝統文化を賛美し、その戦時統制による干渉を最小限にしようという目論みもあった。そして、戦況が窮するにつれ、その傾向はさらに強まり、この『歌行燈』では5年前の『鶴八鶴次郎』よりも日本的なるものを目指しているように思える。そして、映画の冒頭には国粋主義的な文句もインタータイトルで提示されるのだ。芸道ものに逃れることで戦意高揚映画を撮ることを避けてきた成瀬も昭和20年には遂に『勝利の日まで』を海軍省の命令で撮ることになるが、それはまた別の話である。
  この『歌行燈』は山田五十鈴が女性で唯一の重要なキャラクターとして登場しているが、基本的には父と子の物語である。父の権威に子が従う。その主従関係がそこにはある。主人公の喜多八は別に父親に反抗したわけではない。しかし、盲人の年寄りにひどいことをしたということで父親に咎められ、勘当され、歌うことを禁じられるわけだ。喜多八は忠実にそれを守り、しかし情のためにそれを破る。自分が殺したも同然の宗山の娘・お袖を救うためにその禁を破るわけだ。
  ここに見えてくるのは、父とこの主従関係と同時に重要な“情”という理念だ。家父長的な権威には従わなければならないが、人に対する情けのためには時にそれを破ってもよいという考え方、あるいは権威たる父はそのような情を許す器の大きさを持っているということだ。この家父長的な権威のあり方はもちろん天皇を頂点とする日本という家父長的な国家の秩序を反映したものだ。臣民は天皇の権威に従わなければならないが、畏れ多くも天皇陛下は人々が情けのために時にその権威に背くことを許す度量も持っているということだ。

 そのような家父長的な物語の中で、山田五十鈴演じるお袖はどのような役割を果たしているのか。お袖は喜多八の「ひとのおもちゃにはなるな」という言葉に従って、身を売るまでに身を落とすことはせず、努力をし、頑張るキャラクターである。そして同時にひとの情けに救われながら、その人に迷惑をかけないように身をひくという謙虚さももっている。ここから見ることが出来るのは、女性が謙虚であるべきという当時の理想像と、窮地にある人には情けをかけ、救ってやろうではないかという同胞愛の精神である。これまた戦時統制のにおいがプンプンするが、このような考え方が戦前までの考え方であった事は間違いない。
  その戦前においても女性の自立と家父長制に対する不信感を表明していた成瀬が、この映画では家父長的な価値観を追認するような立場に後退してしまった事は残念だが、この頃、あらゆる映画の脚本が事前検閲の対象になり、それを通らなければ映画を作ることすら出来ず、歯向かえば投獄されることも珍しくない状況だっただけに、徹底的に抵抗しなかったことによって成瀬を責める事は出来ない。成瀬はおそらく憲兵によって書き換えを指示され、何度も書き換えたシナリオによって不本意な映画を涙をのんで撮っていたのだろう。これによって成瀬のリアリズムは骨抜きにされ、空々しい物語になってしまった事は残念だが、これも映画の歴史の1ページなのである。

 それでも、このお袖は一本筋の通った女である。ほんのひと目あっただけの喜多八にただならぬ風格を感じ、どこか恋心にも似たものを覚え、そのひとの放った一言を一途に守る。それは女らしい一途さであると同時に自分の意思を変えないという芯の強さでもあるのだ。だから、お袖というキャラクターは成瀬映画の女性主人公らしいキャラクターでもあるのだ。ただこの作品ではそれに対置されるべき情けない男というのが登場しないというだけのことだ。
  この映画をリアルタイムで見た女たちは遠く離れた戦地で戦う夫や父や息子を思い、彼らのために家や家族を守らなければならなかった。その彼女たちにこのような芯の強い一途な女を見せるということは彼女たちを勇気付けることにもなり、(国の方針として)望ましいことであったし、成瀬もまたそのような女性たちを支えたいと思ったのだろう。
  この作品が戦時統制化における妥協作であることは間違いないが、その中でも成瀬はつねに“女性”について考え、映画を作っていた。そう私は思いたい。

Database参照
作品名順: 
監督順: 
国別・年順: 日本50年代以前

ホーム | このサイトについて | 原稿依頼 | 広告掲載 | お問い合わせ