やさしくキスをして
2006/9/11
Ae Fond Kiss...
2004年,イギリス=ベルギー=ドイツ=イタリア=スペイン,93分
- 監督
- ケン・ローチ
- 脚本
- ポール・ラヴァーティ
- 撮影
- バリー・アクロイド
- 音楽
- ジョージ・フェントン
- 出演
- アッタ・ヤクブ
- エヴァ・バーシッスル
- アーマッド・リアス
- シャムシャド・アクタール
- シャバナ・バクーシ
ソコットランド、グラスゴー、カトリックの学校に通うパキスタン人のタハラはクラスメートの差別意識を変えようとするが、なかなかうまく行かない。いつものようにクラスメートといざこざが起きたときたまたま兄のカシムがそこに居合わせ、カシムと音楽教師のロシーンが顔を合わせる。出合ってすぐ二人は魅かれ始めるが…
『ケス』のケン・ローチが宗教観の対立をモチーフに描いた恋愛ドラマ。タイムリーな話題ではあるが、深みという点では疑問が。
ムスリムとカトリックの価値観の対立、それはヨーロッパが長らく頭を痛めてきた問題である。特にこの作品で描かれているような保守的なムスリム・コミュニティは排他的であり、ヨーロッパのメジャーであるカトリックのコミュニティにはまったく理解されない。だから彼らはなおさら彼らのコミュニティに閉じこもり、相互理解はすすまない。もちろんそれでも幸せな生活は送れるし、その例としてタハラとカシムの姉がいる。彼女はイギリス生まれで、イギリスの大学で教育も受けたが、親の決めた結婚相手に文句をいうことはなく、むしろ相手を気に行って結婚することにする。これは彼らの社会においては完全な結末、親と子供の意向が一致した幸せな例だ。
しかし、生活の中で別の社会に触れている以上、その価値観にはあわないような思いを特に若い世代が持つようになることはたやすく予想がつく。タハラは親の望む医者の道ではなくジャーナリズムの道を望み、カシムは親が決めた(イスラム社会を描いた映画などでは子供の頃から結婚相手が決まっているというエピドードがよく出てくる。しかもそれは多くの場合遠い親戚であり、この作品の場合は従妹である)結婚相手ではなく、異教徒の女性を愛する。
このような世代間の対立はたやすく予想できることである。しかし、ムスリムのコミュニティは父権的であり、そのような変化は押しつぶされる。息子を押さえつけられない父親は父親失格であり、その家族はコミュニティの中で面子を失う。だからカシムは家族とロシーンの間で板ばさみになり悩む。そこまではわかるし、彼の苦悩は見事に描かれている。
しかし、ここから先はどうにも落ち着かない。家族もロシーンもまったく譲らずカシムはただただ引き裂かれるのだ。これでは衝突を衝突として描いただけであり、その先には何もない。ロシーンはとにかくカシムを求め、その上で家族に理解されたいなどと勝手なことをいう。ロシーンはカシムの家族に受け入れられるために何もしていないにもかかわらず、彼が自分を受け入れてくれないと言って憤るのだ。やさしいカシムはそんなわがまま放題のロシーンに折れて家族との対立をどんどん深めて行く。
結末を見ると、因襲よりも愛が強いというメッセージのようにも見えるが、結局はキリスト教的価値観の押しつけなのだ。ロシーンは特に敬虔なカトリックでもなく、しかも仕事もクビになったのだから、もうカトリックに固執する必要はないのではないか? イスラム教が何かも知らずにそれを拒否するのではなく、カシムの「改宗できないか?」という問いに少しでも耳を傾けるべきではなかったのか?
最後はこのわがまま女にただただむかつき、カシムがかわいそうになった。きっとカシムの姉が言っていることが正しいのだ。きっとカシムは捨てられてしまうのだ。この映画の結末からはそんな予想がたってしまう。
結局この映画が描いているのは宗教を越えた愛ではなく、個人レベルでの宗教観の対立なのだ。ロシーンのように結局、自己中心的で相手のことを理解できない、相手の立場を想像できない人間で溢れている限り、キリスト教社会はムスリムを受け入れることなどできない。逆もまた真ではあるが、ムスリム社会はキリスト教徒から何かを奪うわけではない。受け入れはしないが排斥しもしないのだ。その違いは非常に大きいと思う。