犯人は21番に住む
2006/9/16
L'Assassin Habite au 21
1943年,フランス,90分
- 監督
- アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
- 脚本
- アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
- S=A・ステーマン
- 撮影
- アルマン・ティラール
- 出演
- ピエール・フレネー
- シュジー・ドレール
- ジャン・テシエ
- ノエル・ロクヴェール
- ピエール・ラルケ
パリで強盗目的の連続殺人が置き、被害者の胸には“ムッシュー・モラン”というカードが残されていた。その捜査を任された警視のウェンスは21番街にある下宿屋ミモザの住人からそこにムッシュー・モランがいる証拠を見せられ、牧師姿で潜入する…
サスペンスの名匠H=G・クルーゾーの初監督作品。古典的ではあるが巧妙なトリックと、軽妙なやり取りが味わい深い。
主人公は警視だが、この映画は“探偵映画”の面白さにあふれている。まずそれを実感するのはウェンスの登場シーン、うえから指令受けた所長がやってくるのを見越して、その先手を打つ登場の仕方はスタイリッシュでもあり、面白くもある。その機知に富んだあり方はまさに名探偵のそれであり、この映画がサスペンス映画ではなく、あくまでも“探偵映画”であることを予感させる。
そしてその後もあくまで探偵映画であり続ける。それは、観客をハラハラさせることよりも、一緒に謎を解くことに主眼を置いているということだ。サスペンス映画というのはこれからの展開がどうなっていくのかというハラハラ感によって物語が引っ張られる映画である。次の被害者は誰かとか、犯人の狙いは何か、そのような要素が観客の興味を引く。これにたいして探偵映画というのは、あくまでもその探偵(ないし事件を解決する主人公)がどのように犯人を捕まえるかという部分が物語を引っ張っていくのである。そこでは被害者のことはあまり問題にならない。被害者が問題になるのはその被害者との関係が犯人を見つけるのに役立つ場合だけなのである。
実際この作品でも、物語の後半にも被害者が出るわけだが、その被害者などは「女が首を絞められた」という一言で言及されただけで、それが誰かとかどういう状況かということは一切説明されない。それはこの物語にとっては「また一人殺された」ということで犯人側からなくなったということだけが重要なのだ。
こういう探偵映画というのは最近はあまりはやらない。それはサスペンス映画に比べるとスリルに欠けるからであり、いまの映画というのは映画館という空間で非日常を体験することに主眼が置かれている。そこで重要なのは映画の空間に引き込まれることであり、そのために重要なのは観客の思考を停止させることである。サスペンス映画にはそれができるが、探偵映画の場合は観客も謎解きに参加しなければならず、思考停止することはできない。だから今はあまりはやらないのだと思う。
しかし、日常の中の楽しみとしてボーっと見るぶんには楽しめるので、『刑事コロンボ』のようにTVでは探偵ものも数多くある。だから、今でもボーっと見る分にはこの作品も十分楽しめるし、60年という時間を感じさせない面白さがある。そして、最近のどんでん返しがみえみえのトリックより、このようなシンプルなトリックのほうが逆に意外性があって面白かったりもすると思う。