ビッグ・リバー
2006/9/18
Big River
2006年,日本,105分
- 監督
- 船橋淳
- 脚本
- 船橋淳
- エリック・ヴァン・デン・ブルール
- 撮影
- エリック・ヴァン・デン・ブルール
- 音楽
- ヤニック・ドゥズインスキー
- 出演
- オダギリ・ジョー
- カヴィ・ラズ
- クロエ・スナイダー
アリゾナ州の荒野、パキスタン人のアリが車を立ち往生させたところに日本人のバックパッカーの哲平が通りかかる。車を修理した哲平はアリの車に便乗、しかし今度はガス欠で止まってしまう。哲平は歩いてスタンドに行く途中、無人の車を見つけ、その持ち主サラと出会う。結局ありの車は動かず、3人はサラの車でサラの家に行く…
人種も国籍も違う3人が偶然に出会い旅をするロードムービー。アメリカの荒野の風景の中に日本的な感性が宿る。
なんだかこの映画にはすごく違和感がある。違和感というのはそれがいい風に転ぶ場合もあれば、うまく行かない場合もある。この映画の場合、どう転ぶかはかなり見る人によると思う。わたしには微妙な感じだったが、それがなぜ微妙だったかは、その違和感の根っこを探ればわかってくるだろう。
この映画の最初の違和感はアメリカの荒涼たる風景、哲平が言うようにまさに“ワイルド・ウェスト”の風景に入り込んだ日本人とパキスタン人である。これはこの映画のテーマでもあり、このような違和感を生み出すことからこの映画は始まっている。特に、パキスタン人のアリはアメリカではおそらく“アラブ人”のくくりに入り(アジアに住むわれわれにとってはパキスタン人はアラブ人ではないが、南アジアの風貌を指定ムスリムならば欧米人にとってはそれはアラブ人である)、それは9.11後のアメリカにおいては非常に大きな意味を持つ。
しかもこの映画の舞台は南部であり、そこには旧来のアメリカの黒人差別とパラレルなものとして語りうるアラブ人差別という問題が示される。そして、警官による職務質問という形でその差別は明確化する。
しかし、私が気になる違和感はこの明確にテーマ化された違和感ではなく、それ以前の映画としての違和感だ。この作品はまさにアメリカの風景を映しているにもかかわらず、決してアメリカ映画ではないのだ。これを日本映画というのははばかれるが、どうにも日本映画的なムードを感じ取ってしまう。それは監督が日本人だからという予備知識によるものでも、オダギリ・ジョーが出ているからでもない。それは映画そのものから立ち込める匂いなのである。私はこの非常にゆっくりとして考える時間がたっぷり撮られた映画を見ながら、それが何なのかをゆっくり考えた。要因のひとつには映像もあるかもしれないが、最大の要因は「音」にあるのだと思う。この映画の音は非常に日本映画的なのだ。特に古典的に日本映画を範にして作られた90年代以降の日本映画の音、それはBGMも生活音も含めた全ての音を控える音である。
注意深く聞けば、そこから意味を汲み取れるのかもしれないが、どうも映像とその音との違和感が先にたって、その意味を読み取ることよりも退屈さを感じてしまう。
この映画はそもそも登場人物たちの背景に関する情報が非常に少ないから、彼らの人間関係の物語に没頭することもできず、そしてその違和感から映像世界に浸ることもできない。違和感が何か引っかかりにはなるものの、それがなんなのかはぼんやりともわからない。ジャームッシュやヴェンダースになるにはまだ何かが必要だ。そんな風に思った。