Vフォー・ヴェンデッタ
2006/9/21
V for Vendetta
2005年,イギリス=ドイツ,132分
- 監督
- ジェームズ・マクティーグ
- 脚本
- アンディ・ウォシャウスキー
- ラリー・ウォシャウスキー
- 撮影
- エイドリアン・ビドル
- 音楽
- ダリオ・マリアネッリ
- 出演
- ナタリー・ポートマン
- ヒューゴ・ウィーヴィング
- スティーヴン・レイ
- スティーヴン・フライ
- ジョン・ハート
- ディム・ピゴット=スミス
近未来のイギリス、社会はサドラー議長の恐怖政治に支配され、夜間外出が禁止されていた。そんな中、自警団につかまったイヴィーは謎の仮面の男“V”に助けられる。“V”はイヴィーの前で建物を爆破して見せ、翌日イヴィーの働くテレビ局に爆弾を持って現れる…
80年代のアメリカン・コミックをウォシャウスキー兄弟が脚本化、『マトリックス』シリーズなのでチーフ助監督を務めたジェームズ・マクティーグが監督した。近未来という舞台とゴシックな雰囲気が混ざり合い、大作にはないおもしろさを生み出している。
『マトリックス』がヒットしてすっかり大物になってしまったウォシャウスキー兄弟だが、彼らは別に超大作を作りたかったわけではなかった。彼らは自分たちの好きな世界観(それはいわゆるオタク的な世界観)を映像化したかっただけであり、それがヒットするという確信はあっただろうが、観客の求めるものを作ろうとしたわけではなかったはずだ。
『マトリックス』の終盤はなんだかなーという感じになってしまったが、この作品を見て、彼らはやはりマイナーなサブカル的な文化を追い求めているのだということを再認識した。
映画のつくりとしては単純だ。全体主義国家の犠牲になったひとりの男がその復讐のため当事者たちに復讐し、国家を転覆しようという試みをするのである。何が単純化といえば、国家のほうが完全に悪であり、“V”のほうが完全に善であるという点だ。このような全体主義国家はナチスや北朝鮮の例を挙げるまでもなく人々の憎悪の対象となる。だから“V”はどうあっても善の側にいることになるのだ。
それでもイヴィーは最初“V”が人を殺すということに抵抗を覚える。しかし、巧妙に隠された国家による殺戮が明らかになるにつれて“V”の善を信じるようになるのだ。観客は寄り多くの事情を知っていることによって彼女の一歩先を行って“V”の味方になる。その構造が観客を映画に引き込み、参加できるようにするのだ。
そのように単純な物語ではあるが、そこには微妙な関係も盛り込まれている。“V”は結局のところテロリストであり、暴力によって暴力に対抗しようとしているのだ。その是非はここでは問われない。むしろ暴力によってしか抵抗のしようがないときには暴力が肯定されるとも取られかねない描写をされているのである。
そしてもちろん、この近未来のイギリスは現在のアメリカをカリカチュアライズしたものである。となると、この作品は現在のイスラム過激派などのテロを肯定しているということになるのかということになるが、さすがのウォシャウスキー兄弟もそこまでの危険は犯さない。そのようなことをほのめかしながらも歯止めはかけているのだ。
その歯止めとなるのがフィンチ警視である。最初はただの警察かと思われる彼だが、少しずつ国家に疑問を持ち始める。彼の存在は結局のところ組織内で何らかの自浄作用が働かない限りその組織が決定的に変わることはないということを示唆している。テロという外からの力はそのきっかけに過ぎないし、それがきっかけになって変化が起こったとしてもそのテロ自体は肯定されない。フィンチ警部の存在はそのように語り、この物語が暴力の肯定になることに歯止めをかけている。
そのような微妙な仕掛けがなされていることによってこの物語の結末は非常に感動的なものになっている。愛だの何だのという言葉は使わないが、結局人間を救うのは人間なのだ。暴力も憎しみも、もちろん権力も結局は人を救いはしない。テロリストもファシストもみな人間であるということを真摯に考えて初めて人間を救うことができる。
この映画は“V”の登場シーンで、彼のセリフに“V”の頭韻がやたらと使われていたり、シェイクスピアがいくつも引用されていたり、イギリス文化についてもっとよく知っていればもっと楽しめそうな仕掛けもたくさんある。このあたりもオタク的でウォシャウスキー兄弟らしいと感じる。『マトリックス』で離れてしまったファンをこれで取り戻し、『マトリックス』のファンは離れて行く。そんな作品ではないかと思う。