ドッペルゲンガー
2006/9/24
2002年,日本,107分
- 監督
- 黒沢清
- 脚本
- 黒沢清
- 古澤健
- 撮影
- 水口智之
- 音楽
- 林祐介
- 出演
- 役所広司
- 永作博美
- ユースケ・サンタマリア
- 柄本明
- 戸田昌宏
- 佐藤仁美
- ダンカン
天才的な研究者の早崎は人工人体の研究にいそしんでいたが、このところスランプでなかなか思うような結果が出なかった。そんなある日、助手の一人から友人の弟がドッペルゲンガーを見たという話を気させれる。その時は一笑に付した早崎だったが、その夜、早崎の前に自分にそっくりな男が現れる…
ホラーの名手黒沢清が今回も役所広司を主演に撮った一風変わったサイコサスペンス。
この映画はホラー映画ではないのだけれど、この映画の前半はなんだか怖い。殺人鬼とか怪奇現象とか観客の恐怖を誘うようなものが何かあるわけではないにもかかわらず、なぜかドキドキし、恐怖を感じてしまうのだ。ここに黒沢清のホラー作家としてのすごさがある。彼は具体的な何かを恐怖の対象として提示しなくても、その映像と音だけで観客を怖がらせることができるのだ。それは、カメラの動かし方と音の使い方が「何か起こるぞ」という雰囲気を作り出し、その衝撃を観客が予感するからである。
その怖さがこの映画のほとんど全体にわたって存在する。この映画が基本的にはホラー映画でもサスペンス映画でもオカルト映画でもないにもかかわらず怖いのはそのような効果によるのだ。その怖さは次に怒ることへの興味につながり、観客はそれに引き込まれるわけだ。
だから物語の展開などとは関係なく、この作品はおもしろい。このようにただおもしろい映画を作れる黒沢清というのはやはりすごいと思う。
それだけ書いて終わりというわけには行かないので、もう少しそこを分析するが、その核にあるのはドッペルゲンガーというものがなんだか結局わからないということである。考えようによっては分裂した人格と捉えることもできるかもしれないが、他の人にも見えるし、コミュニケーションも成り立つし、さらには同時に違う場所にいることができるのだから、単純に人格が分裂しただけでは説明できない。
かといってもちろんただのそっくりな人ではない2人のは矢先が常にまったく同じ服装をしていることを考えれば二人は間違いなく同じ人間なのである。それが何かの拍子で同時に二箇所に存在してしまっているというだけでそれ以上の何者でもない。
しかし、「それだけ」のことがどうしても理解できないのだ。それを理解できないのは、それがわれわれの常識と経験からまったく外れたことだからである。そして、早崎自身をはじめとする登場人物たちもそれを理解できないし受け入れられない。しかしそれは事実として提示されてしまう。
その齟齬こそが本当の恐怖の源泉なのだ。恐怖とは異なるものとの接触から起きる勘定だ。自分では対処できない何か、理解できない何かに出会うとき人は恐怖を感じる。たとえそれが恐ろしいものでなくても、理解できなければ恐怖を感じるのだ。多くの人が虫を怖がるのはそれが人間とは似ても似つかない生き物で、何を考えているか(あるいは何か考えているのか)まったくわからないからだ。冷静に考えればあんな小さい生き物を恐れる必要はないのに、理解できないから人は恐れてしまう。
ドッペルゲンガーも実はそれと同じことなのだ。人がドッペルゲンガーを恐れるのはそれが理解できないからである。「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」という伝説があるが、それはこのドッペルゲンガーに対する恐怖から生まれた伝説であるか、あるいは理解できないという恐怖に押しつぶされて死んでしまうということなのではないか。
この作品にはその恐怖が十分に描かれており、だからおもしろく、そして怖いのだ。おかしくもあるけれども怖いのだ。ラストは若干どうなの?という疑問もわいたが、全体的にはこれも黒沢清であり、面白い作品だと思う。