女の座
2006/9/27
1962年,日本,111分
- 監督
- 成瀬巳喜男
- 脚本
- 井出俊郎
- 松山善三
- 撮影
- 安本淳
- 音楽
- 斎藤一郎
- 出演
- 笠智衆
- 高峰秀子
- 司葉子
- 星由里子
- 淡路恵子
- 草笛光子
- 三益愛子
- 杉村春子
- 北あけみ
- 丹阿弥谷津子
- 宝田明
- 団令子
- 三橋達也
- 小林桂樹
- 夏木陽介
- 加東大介
雑貨店を営む旧家の石川家は亡くなった長男の嫁の芳子が切り盛りし、他に芳子の息子健と3人の娘が同居している。近所には長女松代と次男の次郎も住まい、さらに父が倒れたというほうを聞いて三女夫婦が九州から訪ねてくる…
様々な女性が登場し、成瀬の女性の描き方を十全に堪能できる作品。実力派の女優たちが多数競演しているのも魅力。
前半はまるで小津の映画化のような牧歌的な風景が続く。父親が笠智衆というのも牧歌的な雰囲気を支えている一員かもしれないが、複雑な家族関係であるにもかかわらず彼らはそれなりに仲良くやっていて、対立は表面化しないのだ。
高峰秀子が亡くなった長男の嫁を演じ(『東京物語』の原節子を思わせる)、3人の小姑がいて、しかもそのうちひとり(次女)は先妻の娘で離れを建てて自立している。この環境で反目が起きないのはどうも成瀬らしくないという気がする。しかもその次女は草笛光子、美人ではあるが性格のきつい女性を演じさせれば抜群の力を発揮する女優である。
ただ、女性があまりに多いということが対立の表面化を妨げているのではないかという気もする。女性が2人や3人の場合は対立は用意に表面化する。それはそこでは価値観の対立や何かを巡っての欲望の対立がおきやすいからである。しかしこの物語のように5人も6人もいると、様々なことに対して何人かが自然とまとまり、その組み合わせが様々に変化することで先鋭な対立は生まれないのだろう。次女はそのような女たちの中で孤立して入るが、自立しており、その女の静かな戦いから一歩は慣れた位置にいる。その辺りをさすがに成瀬はうまく描いている。表面的には穏やかで牧歌的な風景であるにもかかわらず、そのそこにはどろどろとしたマグマが沸騰しているのだ。
そして、そのマグマが後半で一気に吹きだす。この後半はまさに成瀬らしい物語である。女のエゴがぶつかり合い、男を巡ってあるいはお金を巡って醜い争いが繰り広げられる。それを演じる女優たちの演技が絶品であり、それがこの作品に深い魅力を与えている。
そしてやはり中でも高峰秀子が素晴らしい。芯の強いけれどもしかし弱い部分も持つ、そんな女性像を成瀬は常に高峰秀子に投影する。ここでも嫁というつらい立場に置かれながら強さを見せ、しかし弱さを垣間見せる。そんな高峰秀子がやはりこの物語の主役なのだ。
ただ、この物語の結末はどこか穏やかだ。後半のドロドロが解消して行くと、前半の穏やかさが戻ってくる。成瀬らしからぬという気もしないではないが、これはこれで観終わった後気持ちよくてよい。成瀬は「小津は二人要らない」といわれて松竹を離れた監督だから、小津を意識せずにはいなかっただろう。もちろん小津を尊敬していたわけだが、小津と違う作風を確立することにこだわってもいたのではないか。
その成瀬が少し自由に、そして自信を持って穏やかで牧歌的な物語を作ってみた、それがこの作品というような気がする。
その中でも成瀬は、一人一人の女性に個性的なキャラクターを持たせ、それぞれの物語を完結させる。そのような女性の描き方においては小津よりも1枚も2枚も上なのである。
杉村春子演じる後妻のあきはあくまでもつき従ってゆく妻のイメージ、これは古い日本の女性のイメージであるが、このような女性は非常にしっかりとしていて思慮深い。三益愛子演じる長女の松代も古い女性のイメージであるが彼女は惚れた男にはとことん弱いという女性らしさを象徴的に示している。この2人は基本的には同じイメージを持つ、ただ惚れた男によって彼女たちの生き方や価値観が左右されているのだ。淡路恵子演じる三女の路子もこの系譜に通じるが、彼女の場合は自分の欲望を素直に表現する現代的な自由さも持ち合わせている。これは旧来の価値観からは「あつかましさ」と写り、煙たがれることもあるが、ある意味では最も素直な存在でもある。丹阿弥谷津子演じる次郎の妻蘭子もこの三女に近い存在だ。ただ、彼女の場合は欲望を素直に表現するのは夫に対してだけであり、その夫という支えを失ったならば、どこかに行ってしまうかもしれないという可能性がほのめかされる。彼女たちは徐々に変化して行く“妻”のイメージのバリエーションを表現しているのだ。
高峰秀子演じる長男の嫁芳子は芯が強く温かみに溢れた成瀬が思い描く女性的なものの理想像を象徴している。しかし同時に何かを支えとしなければ生きていけないという弱さも持ち合わせている。草笛光子演じる次女の梅子は現代の自立した女の先駆者としてのイメージである。しかし同時に女の弱さも持ち合わせ、何かのきっかけで一気に崩れてしまう可能性を秘めている。この2人も実は非常によく似ている。強さと弱さを併せ持ち、同時の弱さを表に出さないようにしている。この2人はいわばコインの表裏であり、成瀬が思い描く女性像を2人で表現しているということができるのだ。
さらに司葉子演じる四女の夏子、星由里子演じる五女の雪子と年代が下るに連れ、その年齢どおりに現代的な女性になって行くということができる。2人は夏木陽介演じる青山を巡って微妙な関係にある。彼との恋愛感情を自分の中でどうあしらうか、そこにこの2人の女性としてのあり方が表れる。この結末はサブプロットのひとつのハイライトなので書かないが、この結末で「なるほど」という感じで2人の女性のイメージが明らかになるのだ。
さらには芳子の妹の静子や松代の娘の靖子といったキャラクターも登場する。特に靖子はいわゆる現代っ子の象徴として振る舞い、母の世代との断絶を表すが、ただ少しステレオタイプすぎる感もある。この時すでに50代後半の成瀬にとって現代の若者というのは少し理解の範囲をこえていたのかもしれない。
このような女性たちの表現は戦前から“女性”を描き続けてきた成瀬ならではの説得力を持つ表現である。多くの作品はそのうちのひとつあるいはふたつのキャラクターに焦点を絞ってじっくりと描いたものだったわけだが、この作品ではそれを一堂に描いた。ある意味では成瀬の女性映画の集大成ともいえる作品なのかもしれない。網羅的な作品の常として退屈さもないとわ言えないが、私はこの映画がすごく好きだし、成瀬の映画が好きで多くの作品を観ているという人なら同じように非常におもしろく見ることが出来ると思う。