妻よ薔薇のやうに
2006/10/3
1935年,日本,74分
- 監督
- 成瀬巳喜男
- 原作
- 中野実
- 脚本
- 成瀬巳喜男
- 撮影
- 鈴木博
- 音楽
- 伊藤昇
- 出演
- 千葉早智子
- 伊藤智子
- 大川平八郎
- 丸山定夫
- 英百合子
- 藤原釜足
BG(ビジネスガール)の君子は母と二人暮し。父親は愛人と別に家庭を作って家を出てゆき、母は歌壇で少し名の知れた歌人である。君子には恋人があり、結婚もほぼ決まっているが、向こうの親に父親のことを言い出せないでいた。そんな時、母が弟子の結婚式の仲人を頼まれ、君子は父親を街で見かける…
成瀬巳喜男の名を大きく高めた戦前の代表作のひとつ。成瀬はこの作品で出会った千葉早智子と後に結婚することにもなる。
この作品のようなトーキー初期の作品を観るとき、どうしてもサイレント映画との違い、そしてサイレント映画の手法をいかに残しているかということに目が行ってしまう。特に成瀬はトーキーが撮りたくて松竹からPCL(後の東宝)に移籍したわけだからなおさらだ。成瀬がPCLに移って初めて撮った作品は『乙女ごころ三人姉妹』で、この『妻よ薔薇のやうに』は第3作に当たるが、移籍した年の昭和10年に成瀬はこの2作を含めて5本もの映画を演出している。したがって、このあたりの作品は成瀬にとってトーキーの実験を行った作品、あるいはトーキーでやりたいことをいろいろやってみた作品ということも出来るのではないかと思う。
そのように思うのはまずこの作品のオープニングが非常にサイレント映画じていみるということだ。ファーストシーンは町並みや停車場といった街の風景を映したものだが、そこにオーケストラによる音楽がかぶせてあり、ノイズはない。これはどうしても伴奏つきのサイレント映画を思い出させる。今から見ると街を映しながらノイズがないというのがすごく不自然なのだ。しかしこの頃のトーキー映画はトーキーという名前どおり「喋る」映画であった。映画のサウンドトラックに刻まれるのはほとんどが役者のセリフと音楽、あとはせいぜい効果音くらいで自然なノイズを入れるのは難しかったのだ。だから、どうしても今から見ると不自然な映像になってしまうのだが、逆にこのようにオープニングで音楽を大きく鳴らすことで観客をトーキーという新しいシステムに引き込んでいると考えることも出来る。この作品に限らず、トーキー初期の成瀬は作品に音楽を意識的に多く取り入れ、トーキーの持ち味を存分に生かした。
そしてもちろん、それ以外でもトーキーの特性をうまく使い、それをサイレントの手法の面白さと組み合わせてもいる。この作品にはその見事な融和と言いうるようなちょっとしたシーンがある。それは、君子が相談に行った伯父の家で、伯父の義太夫を聞かされるというシーンだ。義太夫のよしあしなどというものはもちろんサイレント映画では判断できないから、伯父の下手の横好きな義太夫を聞かされるというのはトーキー的な面白さなのだが、このシーンでは、その義太夫の合間にその部屋にいる小鳥の映像がインサートされる。その小鳥がいかにも退屈そうというか迷惑そうで、笑いを誘う。そして、小鳥の様子によって言葉に頼らず義太夫のよしあしを観客に伝えているわけだから、この表現はまさにサイレントらしい表現だということが出来る。
そしてまた、このシーンをはじめとするユーモアというのも成瀬の初期の作品の特色である。戦後こそ「女性映画の巨匠」として林芙美子の作品などを数多く手がけ、シリアスなリアリズムの作家と見られるようになったが、それ以前の成瀬というのはユーモアに溢れた作品を得意としていたし、戦後でもそんなユーモアを感じさせる作品も数多い。小津も初期には喜劇を数多く撮ったが、晩年にはそのユーモアを失ってしまったように思える。しかし成瀬はユーモアを持ち続け、シリアスな作品でもどこかに笑いの要素を入れた。そこに成瀬の本当のリアリズムがあるのであり、その感覚はこの作品のような初期作品で培われたものなのだろう。
さて、映画の内容に入ろう。タイトルが『二人妻~妻よ薔薇のやうに』となっているようにこの作品は基本的に二人の妻(正妻と愛人)をめぐる物語なのである。しかし、主人公はその正妻の娘であり、当事者の3人の誰かではない。しかし、語り手が娘となることによって観客はこの娘の視点から物語を眺めることが出来るようになる。当事者の一人としてゴタゴタの渦中にいるのではなく、そこから半歩下がったところで物事を見ることによって、よりよく見えてくるのだ。そして、この娘の視点から見ると、まず自分の母親(夫に逃げられた女)の不憫さ、父親の身勝手さ、そして父親の愛人への嫌悪感が浮かび上がってくる。だから、父親を愛人から取り返してまた家族で仲良く暮らしたいと考えるのは当然のことだ。そして、伯父(母親の兄)がその考えを補強する。身勝手な男と不憫な女、これほどわかりやすいシチュエーションはない。
しかし、それでは終わらせないのが成瀬である。娘がそんな想いを抱えて実際に父親のもとに行く。そこにはふたりの子供がいて、愛人も髪結いなんていうなかなか堅い商売をしている。しかも家は決して裕福そうではない。そしてさらに決定的な出来事が起きる。それは、ずっと父親が送金していると思っていた金が実はその愛人のお雪が夫に内緒で送っていたのだという事実が明るみに出るということ事件だ。この瞬間、君子の物事の見え方は180度変わってしまう。善悪の見方は変化し、悪人であったはずの雪子を悪人とは思えなくなり、むしろ自分の母親の方が世間知らずだということに気づく。自分の母がまさに薔薇のような女であるということに気づくのだ。そして、観客もその君子の物事の見え方の劇的な変化を一緒に体験する。それによって観客は3人の関係に目を見開かれる。それまでは君子を中心に物事を見てきたのが、一気に夫婦の関係を注視するようになるのだ。
その中でまず見えてくるのは父親である俊作の情けなさだ。一山当てるという夢を追って妻子の元を去り、さらには愛人とその子供たちに苦労をかける。絵に描いたような甲斐性なし、そんな情けない男である父親に何故ふたりの女がすがりつくのか。そこに男と女の関係に対する成瀬の見方が表れる。
成瀬は「女性映画」を撮るようになった戦後においても、いわゆるフェミニスト的に女性に一人で生きて行くという生き方を選ばせることはほとんどない。自立すると同時に男性との関係においても対等の立場に立つ、これが成瀬が描く女性像である。この作品でも絹子は自分で稼ぎ子供を育てており、自立したひとりの女性として描かれている。しかし彼女は俊作から離れることが出来ない。それは女性が常に愛する相手を求めており、愛する男性と一緒でなければ完全ではないとなると成瀬が考えるからだ。もちろん男性もそうだが、封建的な男女関係においては女性が男性に依存することになっているのだ。そのような因習的な関係がこの作品にも表れている。そして、あたかも男性は女性に依存しないかのように見えるが、しかし実際は俊作も絹子に依存している。君子が「ふたりはまるで一人の人間みたいだ」というその言葉はふたりの関係を、互いに寄りかかりあい、支えあっているふたりの関係を的確に表現しているのだ。
それに対して、俊作と正妻の悦子の関係はそうではない。悦子は俊作を求めているが、その求めている俊作は実は目の前にいる俊作ではなく、彼女が描く理想の俊作像なのである。だから彼が求めているのと違う行動をとるとそれに反発する。それも依存のひとつの形ではあるが、それでは相互的な関係にはなりえない。そんな母を見ながら君子は考える。それは観客もまた考えるということだ。この映画が残す余韻は少し物悲しい。
成瀬は余韻の作家でもあるといえる。成瀬の作品の結末はいつも何か語り足りないような印象を残す。<終>という文字が出ても、何か終わっていないような感じがするのである。その後に続く物語は何か、この結末が意味するものは何か、そのような問いが観客の頭に上る。私は成瀬とは徹底的なリアリズム作家だと思うのだが、そのリアリズムがこの終わり方にも表れているのではないか。このような中途半端ともいえる余韻のある終わり方は、それが人生の断片でしかないことをあらわすのだ。
だからこの結末の物悲しさもまたリアリズムなのだ。君子の母は救われないが、それが人生なのであり、君子はそこから何かを学ぶしかない。観客は彼女が持ち前の明るさでそれを乗り越えてくれるだろうと期待するしかない。