流れる
2006/10/22
1956年,日本,117分
- 監督
- 成瀬巳喜男
- 原作
- 幸田文
- 脚本
- 田中澄江
- 井出俊郎
- 撮影
- 玉井正夫
- 音楽
- 斎藤一郎
- 出演
- 田中絹代
- 山田五十鈴
- 高峰秀子
- 岡田茉莉子
- 杉村春子
- 中北千恵子
- 宮口精二
- 加東大介
柳町の蔦の屋はかつては一流と知れた置屋だったが、お上のつた奴が金をつぎ込んだ男に逃げられ、家は姉の借金の抵当に取られ、抱える芸者も減る一方で完全に落ち目になっていた。そこにさらに芸者の一人なみ江が帳簿をごまかされるといって家を出てしまった…
そこにやってきた一人の女中梨花。その女中の目からみたつた奴の日常を描いた作品。豪華な女優陣を使って成瀬が幸田文の原作を映画化。女流文学の映画化が得意な成瀬だけにうまく仕上がってはいるものの、少々地味な印象はぬぐえない。通好みな作品というところでしょうか。
成瀬巳喜男といえば“女性映画”だが、映像面に注目したときには“光の作家”だと言われる。小津が常にローアングル、固定カメラで独自のスタイルを作ったのと比べると、成瀬の映像に固定されたスタイルというものは感じられない。しかし、彼の作品には常に光が溢れ、その光が作る陰影がその映像を特徴付ける。小津はスタイルという形で彼の作品に刻印を押したが、成瀬はその光の陰影によって刻印を押すのである。
この作品は、成瀬のその光の作家としての特徴が非常によく出た作品である。映画の冒頭は波立つ隅田川の映像で始まり、その波の波光が画面に陰影を作り、さらに、橋や岸壁の作り出すかげが陸地と川の間にも陰影を作り出す。そしてその陰影の強調は、画面が「つたのや」に変わっても続く。細い路地に面してひっそりと建つ「つたのや」、その窓からさす光が部屋の中で陰を作り、そこに座る二階でまだ床に入ったままのつた奴の顔に陰をつける。
この作品で影の部分を担当するのは常にこの山田五十鈴演じるつた奴だ。彼女はほとんどの場合窓に対して半身に座り、その顔に陰がかかる。そして、カメラもそれを斜めから捕らえる。これはほとんどの場合カメラがその表情を正面から捉え、顔に影が出来ない高峰秀子とは対照的だ。この作品は山田五十鈴が主役であり、高峰秀子は脇役に過ぎないし、じっさい高峰秀子演じる勝代の登場シーンはそれほど多くない。しかし、勝代は非常に重要な役だ。それはつた奴が象徴する陰と対極の位置にある光を象徴する存在であるからだ。
この作品は幸田文の原作だけあって着物に非常に気を使っているが、ここでも光と影が巧みに使われている。とくに山田五十鈴が着る着物の柄は陰影が強調された柄の着物が多い。高峰秀子や杉村春子が着る浴衣が白基調の明るいものであるのとは対照的である。ここにも陰の存在としてのつた奴と光の存在としての勝代の対照が表れる。
そして、他の登場人物たちは、全てこのふたりの間にいると言ってよく、そしてそのそれぞれが女性の性格の一つ一つを象徴している。杉村春子のあっけらかんとしたさま、岡田茉莉子のしたたかさ、中北千枝子のだらしなさ、粟島すみ子の抜け目なさ、田中絹代の正直さ、それらはみな光と影の間にいる女たちのあり方であるのだ。“女性映画”を撮り続ける成瀬はこの頃から、様々な女性をひとつの映画に登場させて、その対比から女性というモノを浮かび上がらせようという方法をとりはじめているように思え、この作品はそのひとつの試金石であるように思える。そのためにこれほどの女優を集めて、これだけの作品を作ったのだろう。
その中でもいちばん印象に残るのは杉村春子演じる染香である。杉村春子といえば、伝説的な名女優だが、基本的には地味な役者で、因業な婆さんとかをやることが多いわけだが、この作品では盛りを過ぎてお茶をひくことが多い芸者でありながら、10歳年下の恋人と同棲し、コロッケを買ってはソースを借りている不思議なキャラクターである。普段は一人でコロッケを食べていたりする地味なたたずまいでいながら、たまの座敷に呼ばれて酔っ払って帰ってくると陽気にはしゃぎ、最後には酔っ払ってつた奴にたてつく。その剣幕のすごさもまた面白い。そして、このシーンにはこの「つたのや」にいる人々の複雑な関係をも示しており、それは同時に女の間に存在する複雑な感情のもつれをも示しているのだろう。女たちの感情のもつれは奥が深く、言葉では容易に表現する事は出来ない…
ただ、この作品ではそのもつれにお金が深く関わってくる。成瀬の作品にはなるほどお金が絡む話がやたらと多いが、この作品もそのひとつ。この家にはもう芸者はふたりしかいないにもかかわらず、何もせずにぶらぶらしている娘と妹と妹の娘がいて、さらに女中まで雇っている。それでいつも「お金がないお金がない」ということになるのは当たり前の話だ。それではふたりの芸者の不満もたまって行くに違いない。成瀬とお金の話は、他の作品を論ずるときに譲るとしても、この感情のもつれが登場人物同士の関係を複雑にし、それがゆえにそれぞれがバラバラに行動しているように見え、映画の全体としてのまとまりを損なっているという印象は否めないが、これを女たちの群像劇と考えるなら、それでもいいのかもしれない。
そのように考えて行くと、どうもこの作品はばらばらというか散漫な作品で、“女性映画”作家・成瀬らしいテーマ性を欠いているようにも見える。しかし、この作品にひとつ共通するものがある。それは“男”である。映画の序盤でつた奴が田中絹代演じるお春にたいして「男がいない女がいるなんて思っても見なかったものだから」というようなセリフを吐く。つた奴はそれだけ“男”に依存している女であり、今の窮状も男に金をつぎ込んだためであるらしいことがほのめかされる。そして、染香には同棲している恋人がおり、なな子は昔の恋人に呼ばれてうきうきとする。映画の終盤には染香が「女に男が要らないってのか!」とまくし立てる。
これらの男の存在をそう考えればよいのか。そのような男に捕まっていない女たち(粟島すみ子演じる水野の女将など)は彼女たちとは違う人生を送っているようだ。成瀬は女性映画の巨匠といわれながら、いつも女性が男性に依存するという構造を描く。自立していながらも、心情の面では男に依存する女性を綿密に描くのだ。それは成瀬が戦前から一貫してやってきていることであり、成瀬はそこに女性の本質があると考えているのではないか。戦後男性が弱くなり、女性が強くなったが、それでもやはり女性は男性に依存してしまう。その構造の中で女性がいかに生きるのか、それこそが成瀬が描こうとしたことであり、そのように生きようとする女性とそれをあきらめた女性を対比することで、さらにそれを深めていこうとする。そこで見えてくる女性像とはいったいどのようなものか。それは成瀬のほかの作品も観ていかないとわからないが、この作品を観る限り、そこを追求して行くとき、再びお金の問題が頭をもたげてくる。
男と女とお金、この作品にも観られるその三者の関係を、女性を中心に見ること、それが成瀬の映画作りの最終的なテーマだととしたら、この作品はその男とお金との関係においてさまざまなスタンスを取る様々な女を描いた作品であり、そしてその中心には男にもお金にも負けてしまった女がいる。しかし、それでも彼女は救われるはずだ。その人間の感情と関係の複雑さを映画によって表現し続ける。それが成瀬がやり続けていることだろうと思う。