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ベストセラー

女が階段を上る時

★★★★星

2006/10/30
1960年,日本,111分

監督
成瀬巳喜男
脚本
菊島隆三
撮影
玉井正夫
音楽
中古智
出演
高峰秀子
森雅之
団令子
仲代達矢
加東大介
中村鴈治郎
preview
 バーの雇われマダムの圭子は最近売上が落ちてきて頭が痛い。そんな中、昔の馴染みである美濃部にまた来てもらおうとマネージャーの小松が気をまわすが、美濃部はまた店に来て、お客を紹介する代わりに圭子と関係することをほのめかす。圭子はそんな美濃部を袖にして、新しい店に移るが…
  菊島隆三が自ら製作も買って出たオリジナル脚本を成瀬が監督。夜の銀座を生きる女の悲哀を見事に描いた。主演の高峰秀子は衣装も担当し、その多才ぶりを発揮している。
review

 この映画はまるで高峰秀子自身の半生を追ったような物語である。もちろん彼女は女優であり、バーのマダムではない。しかし、彼女は養母である母親やら、彼女を頼って上京してきた兄弟やらを食わせるために好きでもない、というよりはむしろ嫌いな女優という職業を続けなければならなかった。子供の頃から役者として八面六臂の活躍をし、学校に行きたくても行けず、ただただ働く日々、その日々のつらさを彼女は自伝「私の渡世日記」に綴っているが、そこに記されている彼女の心情とこの作品の主人公圭子が病気で実家に帰ったときに母親に吐露する感情はあまりに似通っているように思える。
  もちろん、実生活に近いという理由だけで高峰秀子がいつもよりいい演技をしているということはない。彼女は自分の生活とはかけ離れた境遇にある役(例えば盲目の夫婦の妻を演じた『名もなく貧しく美しく』)を演じるときでも見事にその役にぴたりとはまる演技をしているのはもちろんのことだ。それでもやはり、この作品の高峰秀子は彼女の数多い出演作の中でも印象に残る演技をしているような気がする。特にそれを感じたのは、この題名にもなっている「階段を上る」シーンである。この「階段を上る」シーンとは、2階にある仕事場であるバーへの階段を上るとき、彼女の心に去来する様々な思いを描くシーンである。この時の心情こそがこの映画のテーマであり、決して好きではないバーのマダムという仕事に向かう彼女の心情こそが成瀬が描こうとしたものなのだ。そして、そのシーンは何度かあるのだが、そのどれもが上から上がってくる高峰秀子を映し、次に足元のクロースアップとなり、最後に階段を上りきる彼女を後ろから映すというカット割りになっている。そしてその時の、その上り始めの一歩目を踏み出す仕草とクロースアップされた足の運びによって高峰秀子はその時の圭子の心情を表現する。この辺りはまさに成瀬巳喜男と高峰秀子の阿吽の呼吸、監督が力を入れるシーンを知って彼女がそこに心を込める。そんな見事なコンビネーションすら感じられるシーンではないかと思う。そして、そこからは、家を出て撮影所に向かうまでに自分を奮い立たせたという彼女自身の経験を綴った自伝の記述も連想される。

 この映画のテーマはいったいなんだろうか。きらびやかな銀座で働く女性、その日々を描くことによって成瀬は何を描こうとしているのか。もちろん、“女性映画”を描き続けている成瀬だから、バーのマダムという一人の女の日常を描くことで、そこにひとつの新しい女性の生き方を描くということにはなるだろう。しかし、それだけを見ると、市川崑や増村保造らが監督した多くのモダニズム映画と変わらないのではないかとも思えるし、もしそうならば、現代的な感性に優れたモダニズム映画のほうによりいっそうのリアリティがあるようにも思える。
  成瀬が描こうとするのは、そのような女性たちの「生き様」ではなく、彼女たちが「いかに生きて行くのか」ということだ。夜の街でいかにのし上がって行くか、いかに男を手玉に取るかということを主題にしているようで、実はその裏にある彼女たちの「生き方」に注目しているのである(前者のようなテーマを扱った映画の例は枚挙に暇がないが、例えば典型的なのは増村保造が監督した『でんきくらげ』)。
  そのような視点から見たときに重要になってくるのが、この作品に登場する実家の存在だ。圭子は体を壊して実家に療養しに行った際、母親とことごとく対立する。しかし、母親と兄は彼女の収入に頼りきり、彼女はそれにほとほと嫌気がさしている。しかしそれでも彼女は実家に戻ったのであり、母親や兄の頼みを断れない。銀座の夜の世界などというものは、家族という旧来の社会関係とは切り離された空間であり、誰もが家族という関係からはなれて個としてそこに関わる空間であるのだ。しかし、そこで働く彼女たちも、客としてやってくる男たちも、その空間を離れれば家族と離れては生きていけないし、夜の女として自活しているはずの女たちも家族とのつながりを絶つわけには行かない。もちろん自発的に断つことはできるのだが(前述の『でんきくらげ』のような映画では主人公は多くの場合自発的に家族との関係を絶っている)、彼女はそれをしようとしない。お荷物でしかないはずの家族でも、彼女はそれを捨てることが出来ないのだ。
  そして、そこに成瀬らしい人間描写の真髄があるのだと私は思う。“女の自立”を成瀬は描き続けるが、その裏には常に“情けない男”がおり、女はその男との関係を断ち切ることができないという構図がほとんどの作品に見られる。そしてそれがない作品には、女には家族というしがらみがある。この家族とのしがらみというのは実は“情けない男”との関係のバリエーションでしかない。それは、どちらも女の生活と人生にとって実利的な面では必要なものではないにもかかわらず、それを捨て去ることが出来ないものであるからだ。何故捨て去ることが出来ないのか、その答えを成瀬は用意しない。しかし、それは答えがないからこそ重要なのだ。何故捨てることが出来ないのかがわかったなら、それを捨てる可能性が出てきてしまう。理由はわからないけれども捨てることが出来ないからこそ、それは本当に捨てることが出来ないものであるのだ。だからこそ成瀬は理由にならない理由を描くために同じテーマを描き続ける。
  男と家族、それは必死に生きようとする女の足を引っ張るが、女はそれなしでは生きられない。そのようにして何かに依存することが、必要なのであり、同時に依存されることも必要としている。それでも、成瀬はそんな女たちにエールを送り続ける。

 そんな女たちが主役になる成瀬の映画、特にこの作品のようにバーの女給や芸者などが主人公になる作品において、必ずと言っていいほど登場するのが子持ちの同僚である。この作品でも中北千枝子演じる女給が「明日息子が遠足だから」といって水筒を持って帰るシーンがある。この女給に夫がいるのかどうかはわからないが、おそらくいないか、いたとしてもどうしようもない男だろう。『流れる』は芸者置き屋の話だったが、そこでも中北千枝子は子持ちの役で登場する。ここで彼女は芸者ではないが、芸者置屋の主人である山田五十鈴の妹であり、子供の父親である加東大介に捨てられて、実家に転がり込んだという設定になっている。また『銀座化粧』は子供を抱えたバーの女給が主人公の映画だった。
  このキャラクターが典型的なものとして設定されているのは、これが「女」と「母」の対立あるいは共存を象徴するようなキャラクターだからである。女性が一人の女として自活しようとするとき、男と家族がその足かせになると同時に、子供を持つということが大きな転換点になる事はいうまでもない。成瀬はあまり母親であること自体を描こうとはしないが、この『女が階段を上るとき』においても、この中北千枝子演じる女給の存在によって、子供を持つという可能性を観客に想起させる。それによって180度変わってしまう女の人生、その可能性は女の行き方に常に影を落とす。そして、子供が生まれるということは、また新たな家族の出現でもある。自分が生まれた家族に加えて、自分から生まれる
家族、それらは女を縛り付け、身動きできなくする。しかし、だからと言ってそれを振り払い、自由になることよりは、その縛り付ける男や家族とつながり続けることに意味を見出す。それが人間的ということであり、成瀬巳喜男が真にヒューマニストであるゆえんだ。

Database参照
作品名順: 
監督順: 
国別・年順: 日本60~80年代

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