インサイド・マン
2006/11/4
Inside Man
2006年,アメリカ,128分
- 監督
- スパイク・リー
- 脚本
- ラッセル・ジェウィルス
- ドナ・バーウィック
- 撮影
- マシュー・リヴァティーク
- 音楽
- テレンス・ブランチャード
- 出演
- デンゼル・ワシントン
- クライヴ・オーウェン
- ジョディ・フォスター
- クリストファー・プラマー
- ウィレム・デフォー
ダルトン・ラッセル率いる4人組が塗装やに変装して銀行強盗を試みる。彼らは客や従業員の携帯や鍵を取り上げ、服を脱がせて皆に同じつなぎを着せる。一方警察のほうでは刑事フレイジャーが交渉役となり、ラッセルとの交渉を試みる…
スパイク・リーがデンゼル・ワシントンを主演に撮ったサスペンス映画。派手なアクションなどはないが巧妙な心理劇はさすが。
スパイク・リーにサスペンスというイメージはないが、『マルコムX』のような史実ものであれなんであれ、観客を引っ張っていくストーリーテリングのうまさには定評があるのだから、サスペンスだって撮らせてみればうまく撮るに違いない。この作品は見事にそのことを証明している。
映画の進みは非常に静かで、ある意味では単調だ。しかし、そこにはたくさんの謎が隠され、観客には考えるべきことがたくさんあるから、その単調さにもかかわらずまったく飽きない。普通、サスペンス映画というと次々に鍵が与えられ、それがある種の道筋となっていて、観客はそれを追っていけば、確実に事件の真相に近づいていくことができる。この作品も確かに少しずつではあるが確実に鍵を与えられてはいる。しかし、それらは直接的にはつながらず、観客は単純にそれを追って行くことはできない。その代わりに、以前に出てきたヒントをも思い返し、それと新しいヒントの関係を考え、そこから導き出される結果を考える。その知的なゲームがこの映画の最大の面白さだ。
そして、犯人も人質も皆同じ格好をするというこのアイデアは非常にいい。これは単に警察を混乱させるだけでなく、観客も混乱させる。観客には犯人を特定できるようなヒントが与えられはするが、それでもやはり50人もの人質のなかで犯人が誰であるかを確実に知るのは難しい。その途中には犯人と人質との区別がさらにつきにくくなるような仕掛けが用意され、デンゼル・ワシントンがそうであるように、一人一人の事情徴収の場面に至っても、結局誰が犯人の一味なのかは必ずしもはっきりしないのだ。
最後の最後にははっきりと犯人の仲間たちが映し出される。それを見て、ああと思う人物もいれば、ん?と思う人物もいる。その犯人たちが、この反抗の過程のどこで登場したのか、そのことをもう一度見ながら検証してみれば、また楽しめるのかもしれないとも思った。
スパイク・リーといえば黒人(正しくはアフリカ系アメリカ人といわれるが、“黒人”という言葉には黒人たち自身が自分たちのアイデンティティを保つために使う言葉であるという意味もある)について何か(多くは社会的なこと)を語る映画が多いわけだが、この作品は基本的には娯楽映画だ。しかしもちろんその中には人種差別の問題が登場し、同時にニューヨークという土地の多様性が垣間見える。その一番のシーンは、何語かわからない言葉の意味を突き止めるためにフレイジャーがスピーカーでそれを流すシーンだ。野次馬の誰かはその言葉の意味を理解するに違いない。それほどに多様な人々がニューヨークにはいるのだ。
そのことを示唆するだけでも多少の意味はある。白人対黒人という単純化されたにこう対立ではない人種問題、それこそが語られるべきだし、そこには人種以外の要素も入ってくる。娯楽映画を作りながらも、日常的な問題としてそれを織り込むあたりはやはりスパイク・リーらしい問題意識の持ち方なのだろう。
小難しいことを言うスパイク・リーの映画には二の足を踏むことも多いが、こういった知的な娯楽映画ならどんどん見てみたいと思う。