ひき逃げ
2006/11/7
1966年,日本,94分
- 監督
- 成瀬巳喜男
- 脚本
- 松山善三
- 撮影
- 西垣六郎
- 音楽
- 佐藤勝
- 出演
- 高峰秀子
- 小沢栄太郎
- 司葉子
- 加東大介
- 黒沢年男
夫を亡くし、食堂で働きながら、一人息子と弟と暮らす国子は息子の成長だけを楽しみに生きていた。一方、自動車会社の重役である柿沼の妻絹子は息子がかわいいがために恋人のために夫と分かれる決心が付かないでいた。そんな絹子が恋人の小笠原と車で走っていたところに、国子の息子武が飛び出してきて、絹子は武を轢いてしまう。小笠原との関係の発覚を恐れた絹子はそのままその場から立ち去ってしまう…
息子を奪われた女の恨みを、高峰秀子が見事に演じた力作。脚本は高峰秀子の夫・松山善三。成瀬と高峰秀子が組んだ最後の作品でもある。
この物語の背景にあるのは、高度成長期の企業戦士のモーレツさ、会社の利益と自分の出世のためには他人の命もものともしない考え方である。このような社会の変化とはまったく関係ない人々にも影響を及ぼす。それがこの作品の描かんとしているところではないか。
これは、社会構造の大規模な変化を含んでいる。映画界でもそれに呼応するようにモダニズム全盛の時代を迎える。モダニズムとそれまでの映画の大きな違いは、時間の使い方、スピード感である。モーレツな社会に呼応するように恐ろしいほどのスピード感をもつ映画が次々生まれた。成瀬のこの作品は、高度成長期を描きながら、成瀬映画らしいゆったりとしたスピードで進む。しかし、それは決して現実を反映していないというわけではない。高度成長期と言っても、その恩恵を受け、そのモーレツさの影響を受けるのは、一部の人に限られていたのだ。この作品で主人公になる高峰秀子演じる国子のような庶民は相変わらず貧しくかつかつの生活を送り、ただ物価の上昇やら何やらで、相変わらずお金に追われる生活を強いられるというだけの変化ぐらいしか感じる事はない。
高度成長期とは、確かに日本と日本人が豊かになった時代ではあるが、それは時間とお金に追われる時代の始まりでもあった。
成瀬は、繰り返し繰り返しお金の話をその作品に盛り込んできた。それは、ほとんどの作品にお金の話が登場すると言っていいほどである。そして、この作品でもお金の話が出てくる。交通事故の慰謝料の話をするのだ。しかしこの話は国子にとってはあまりに現実感がない。彼女にとっては息子の死こそが全てであり、そんなお金の話は耳に入らないのだ。
ここには何か引っかかるものがある。これまであんなにもお金の話を書き続けてきた成瀬が、こんなにもリアルにお金が関わる話では、お金の話にスポットを当てないのだ。それはなぜかと考えてみると、これまでの成瀬の作品では、お金は主人公の女が男や家族との関係の中で問題となるものとして現れていた。それは、日本がまだ貧しかった時代、お金の問題は非常に大きな問題であり、お金とはつまり住み、食べ、生きて行くためにどうしても必要なものだったのだ。
しかし、この作品でのお金はそうではない。それは、どうしても必要な金ではない。弟が「もらえるもんはもらえるだけもらっといたほうがいい」というように、いわばあぶく銭なのだ。そのお金をもらわなくとも彼女は食うに困るわけではないし、家政婦になるのも、お金を稼ぐためではなくあくまでも息子のためなのである。そこから見えてくるのは、成瀬が描くお金とは、生きて行くのにどうしても必要なお金、女が女として生きて行くために欠かせないお金だけなのだということだ。男や家族との関係がお金によってこじれるのは、そのお金が彼女に必要なお金だからであり、それが生きることに直結するからだ。
成瀬の映画に登場するお金は、生きること、生活することを具体的に想起させるものとして使われている。それはゲームとしてのお金や、何かの代償としてのお金ではなく、生きて行くことに直結したお金なのだ。逆に言えば、そのようなお金なくしては人間は生きて行くことが出来ないのだ。だから成瀬はお金について描き続ける。お金を描かずに、生きるということを描く事は出来ないからだ。
しかし、この物語は違う。この主人公の国子はお金がなくとも生きていける。彼女は息子への思いさえあれば生きていけるのだ。息子は自分が生きて行く上でどうしても必要なものだった。それを奪われた今、お金は生きるために必要ではないどころか、生きることすら本当には必要ではないのだ。彼女が生き続けているのは息子を生き続けさせるため、死んでしまった息子の生が無駄ではなかったということを証明するためなのだ。
そんな主人公を演じる高峰秀子の演技は少々しつこいという印象もある。しかし、そのお国の秘められた感情が手に取るように判るという点ではわかりやすい演技だし、その迫力は、迫真という言葉がまさにふさわしい。
成瀬の作品は、役者の演技に限らず、しつこいといいたくなるほどにわかりやすい演出も多い。一つ一つのシーンが意味するところを観客にわかりやすくて維持するのだ。それは、彼が映像をいじくることや雰囲気を作り出すことを目指す作家ではなく、作品のテーマを観客に示すことを目指す作家だからである。そのテーマを浮き彫りにし、それについて観客に考えさせるためには、一つ一つのシーンをじっくりと作り込み、その意味するところを観客にわからせなければならない。しかも、成瀬はそれを言葉で説明することを嫌う。言葉で説明すれば簡単な事は確かだが、言葉よりも映像で説明したほうが直接的に観客に訴えかける。そのために時間の経過を示すインサートカットを使ったり、表情や仕草のクロースアップを多用したりするのだ。そのために、そのわかりやすさが時には過剰になり、わざとらしかったり、しつこかったりという印象を与えることがあるわけだが、それはそれで成瀬のスタイルだろう。
この作品でも、生きがいというか、生きるために必要なものを失われた女を通して、社会の変化から来るひずみを描いているわけだが、中心的なテーマとなるのは、やはりその女の生き方のほうである。そして、それを表現せんがために自然と高峰秀子の演技は過剰になる。観客が瞬間瞬間の彼女の感情を読み違えないように、丁寧に演出して行くのだ。
成瀬巳喜男の作品を観ていると、暗い気分になることも多い。しかしそれはそこに描かれている真実が、今われわれが生きている世界の悲劇的な真実と重なり合うからだ。成瀬巳喜男が活躍したのは今からおよそ70年前から、40年前までである。それを遠い昔と取るか、最近のことと取るかは別にしても、そこには現代に通じる真実が溢れている。われわれは100年前に生まれた成瀬巳喜男という男の目を通して、女の生き方を見る。そして、その目に今の世の中がどう写るかを考えてみる。それはおよそ50年前とどれほど変わっているのか。この作品で描かれた高度経済成長による社会の変化を経ても、人間の本質はそれほど変わっていないのではないか。それは女の本質と、(情けない)男の本質という両方も含めてだが。変化して行く時代の中で、われわれは全てのものが変わって行くと思いがちである。しかし、果たしてそうだろうか。私たちは昔の映画を見ながら、それをノスタルジーによってではなく、リアルなものとしてみることも出来る。これは、変化しないものも相当あるということを意味しているのではないか。成瀬巳喜男がもし今作品を作るとしても、40年前とそれほど違った作品は作らないのではないかと思う。