秋立ちぬ
2006/11/18
1960年,日本,79分
- 監督
- 成瀬巳喜男
- 脚色
- 笠原良三
- 撮影
- 安本淳
- 音楽
- 斎藤一郎
- 出演
- 大沢健三郎
- 乙羽信子
- 一木双葉
- 藤間紫
- 藤原釜足
- 加東大介
- 菅井きん
母親と信州は上田から上京した秀男、伯父さんの家に厄介になって東京生活が始まるが、一緒にいると思っていた母親の茂子が宿屋に働きに出ることがわかり、ひとり伯父さんの家で手伝いをしながら過ごすことに。それでも、秀男は気丈に暮らし、茂子が勤める宿屋の娘順子と仲良くなる…
成瀬が複雑な家庭事情を抱えることもを描いた一風変わった作品。しかし本質は変わらず、その切なさは成瀬の作品の中でも随一といっていいだろう。
この映画にはいくつか、“章”のようなものがあるといっていい。最初は親子が親戚を頼ってそろって上京してくる章、そこでは親子は仲睦まじく、東京に来ても一緒に仲良く生きていくことを信じきっていく。しかし、それは母親が宿屋に働きに出ることで簡単に崩れてしまう。親子は離れ離れになり、それぞれ別の生活を送るようになる。
ここで話は大きく変わる。息子のほうは母親と暮らしていた頃と同じように家の手伝いをし、時には子供らしく遊びもするという普通の生活を送るのだが、母親のほうは宿屋で働くという新しい環境の中で変化していく。その変化は母親から“女”への変化である。環境の変化によって、それまでの“母親”としての生活は一変し、それによって彼女の中の“女”が再び目を覚ますのだ。
この“母”と“女”というモチーフは成瀬がたびたび取り上げるモチーフである。典型的なのは田中絹代が主演した『銀座化粧』だが、この作品も乙羽信子が演じる母親に関しては同じ事が言える。これは「女性」を描き続けてきた成瀬らしいモチーフであり、母親が同時に“女”であるというのは成瀬の思い描く女性というものを突き詰めていくうえで非常に便利なキャラクターだといえる。
しかし、この作品ではそれがテーマではない。自分の中の“女”を見出した母親は息子を置いていなくなってしまう。そこがこの作品の眼目であり、次なる章への展開をもたらす。ここから先の物語は、とにかく切ない。“切なさ”というのは説明するのが難しい感情のひとつだと思うが、この作品はその“切なさ”というのがどのようなものであるかを完全に表現していると思う。
母親がいなくなってしまってもきっと還ってくると信じる子供の思いの切なさ。ただ一人信じていた母親に裏切られた子供の切なさ、その切なさはまさに身を切るようである。繰り返し映される秀男の横顔からはまさにその切なさがあふれ出ているのだ。
そんな秀男が、唯一その切なさを忘れることができるのが、順子といる時間だ。順子の世間知らずさが秀男を救い、彼女とデパートで遊んでいるあいだはその切ない思いを忘れることができる。しかし、その順子もまた母親が“女”としての一面を見せることで切ない気持ちを味あわされてしまう。
そんな二人が手に手を取ってレールの上を歩くシーンはまさに秀逸、そのとき子供たちの表情は遠くに来たということで少し晴れやかになってはいるが、どうしてもぬぐえない切なさが湧き出てきているように見える。
とにかく、「女性映画」の印象が強い成瀬だが、このように子供を描かせても一流の腕前を持つということが良くわかる。成瀬が描く子供はいつもどこか孤独だったり、つらい境遇を抱えていたりする。それは成瀬にとって子供も大人も世間という荒波にさらされていることに変わりはないからなのではないか。女が“母親”と“女”の間で揺れるように、子供も何かのあいだで揺れている。そのような人間の心の“揺れ”を成瀬はいつも描いているのだと思う。