皇帝ペンギン
2006/11/21
La Marche de l'Empereur
2005年,フランス,86分
- 監督
- リュック・ジャケ
- 脚本
- リュック・ジャケ
- ミシェル・フェスレール
- 撮影
- ロラン・シャレ
- ジェローム・メゾン
- 音楽
- エミリー・シモン
- 出演
- ロマーヌ・ボーランジェ
- シャルル・ベルリング
- ジュール・シトリュク
冬を間近に控えた南極大陸の各地から、皇帝ペンギンたちが彼らの西端の地であるオアモックを目指して更新する。数十日にも渡る行進の末、ほぼ同じ時刻にオアモックに終結したペンギンたちはパートナーを見つけて、子供を作る…
皇帝ペンギンの生態を捉えたドキュメンタリーに、ペンギンの声でナレーションを挿入したドキュメンタリー劇映画。そのドラマは感動的であり、ペンギンたちの仕草はかわいい。
ドキュメンタリーにナレーションを入れるというのはごく普通のことだけれど、動物ドキュメンタリーの動物にセリフを当てるというのは普通ではない。それは果たしてドキュメンタリーと呼べるのか?という疑問がわくが、この映画は間違いなくドキュメンタリーである。それは、この映画が捉えているのが全て真実だからである。この数十日間に渡るペンギンの行進、そして数ヶ月間に渡る子育ての映像はドキュメンタリーとしての迫力が十分にある。
それにナレーションではなく、語りを挿入したとしても、それは依然としてドキュメンタリーであり続けると私は思う。というより、ドキュメンタリーとフィクションというのはそもそも明確な境界などないものだ。ドキュメンタリーは常にいくらかフィクションであり、フィクションは常にいくらかドキュメンタリーである。この作品はフィクションの要素が非常に強いドキュメンタリーだというだけの話だ。
この作品に挿入される語りは、いわば主観的なナレーションを敷衍したものである。この語りはもちろんペンギンたちの心理そのものではなく、それを見た人間がペンギンに自己を投影したときに思うことなのである。つまり、この語りはドキュメンタリーにひとつの方向を与え、観客の理解を助けるものとして挿入されているのだ。これはドラマではない。ペンギン夫婦の関係という点ではフィクション的な要素も多分に入っていることは否定できないが、ペンギン夫婦の物語を語るドラマではないのだ。この夫婦は皇帝ペンギンの生態を人間がわかりやすく捉えるための材料なのである。
だから、水中のシーンでペンギンの視線で捕らえた映像が少し入る以外はほとんどが引きのショットであり、寄ったときでもペンギンを正面から捉えることはあまりしない。それは観客が必要以上にペンギンに感情移入することを防ぐためのものであり、これをあくまで現実として提示するためなのである。
だから、この作品は現実の厳しさも同時に伝える。寒さで凍りつく卵の映像はすごく説得力があるし、ほかの鳥に襲われた雛を捕らえた映像も非常に現実的な様相を呈する。これはペンギン世界の夢物語ではなく、南極で起きている現実だということをこの作品はくり返し語るのだ。
とは言ってもやはり、この仕草のかわいいまるで人間の子供のようなペンギンに感情移入せずにはいられないのも確かだ。特に雛が生まれてからは握り締めるこぶしに力が入るほどにその世界に入り込んでしまう。
全体的に現実を見せているので、分析的に見られる大人ならいいが、子供が見ると不必要にペンギンに感情移入してしまうのではないかと思う。ただでさえ人間的でかわいげのあるペンギンだから、その効果はどれほどのものか。ドキュメンタリーとしてのバランスをとるならば、アザラシを主役にした作品も作って欲しい。そこでアザラシが生き残るためにペンギンを狩る映像を入れたなら、アザラシとペンギンに対してどのような感情を抱くだろうか。
この作品はドキュメンタリーとフィクションの要素を併せ持っていることで、映像作品の持つ力を考えさせる作品ともなっている。これは確かに現実ではあるが、現実の一面でしかないということ、それは忘れてはいけないし、ドキュメンタリーの顔をしているのなら、そのことを語らなければいけないと思う。