僕の村は戦場だった
2006/11/25
Ivanovo Detstvo
1962年,ソ連,94分
- 監督
- アンドレイ・タルコフスキー
- 原作
- ウラジミール・ボゴモーロフ
- ミハイル・パパワ
- 脚本
- ウラジミール・ボゴモーロフ
- ミハイル・パパワ
- 撮影
- ワジーム・ユーソフ
- 音楽
- ヴァチェスラフ・オフチンニコフ
- 出演
- コーリャ・ブルリャーエフ
- ワレンティン・ズブコフ
- E・ジャリコフ
- ニコライ・ブルリャーエフ
銃弾が降り注ぐ中、川を泳いで渡った少年がソ連軍のキャンプにたどり着く。そこで少年は司令部を呼び出せと主張し、実はその少年が斥候としてドイツ軍内に潜入していたことが明らかになる。その少年イワンはホーリン大尉との再会を喜び、斥候の結果を報告するが、ホーリンは彼を幼年学校にやろうとする…
タルコフスキーがナチスドイツとの第2次世界大戦に巻き込まれた一人の少年を描いた長編デビュー作。デビュー作からタルコフスキーらしさが見られる作品。
序盤の少年が川を渡るシーンから画面に漂う緊張感はさすがにタルコフスキーらしい。タルコフスキーといえば色々な作品があるけれど、このシーンを見ながら思い出すのは『ノスタルジア』のろうそくを持って歩くシーンだ。1ショットで捉えられたろうそくを運ぶその緊張感と俯瞰で捉えられた少年の危険な道行には共通点がある。
そのような緊張感漂うシーンはその後もいくつも現れる。そして、その多くが1ショットが長く、その1ショットの長さがまた緊張感を演出するのだ。この長い1ショットを挟み込んでいくタルコフスキーのリズムはすでにデビュー作から出来上がっていた。このリズムは眠気を催させもするが、そこに潜む張り詰めた空気は人を緊張させもする。タルコフスキーとはなんと静謐にして能弁な映画作家だろうか。
この作品でもうひとつ圧倒的なのは、主人公イワンの現実と夢の表情の違いだ。現実のイワンは無表情で常に口をへの字に曲げているが、夢の中のイワンは顔に無邪気な笑みを浮かべ、楽しげに笑っている。この夢がなんなのかは説明されないが、それが繰り返し登場することによってイワンが現在の境遇に陥ってしまった理由は少しずつ明らかになっていく。川と井戸という水にまつわる2つの場所と母親、それは幸せだった時代とその喪失を繰り返し物語る。ここでもタルコフスキーは能弁である。
もちろん、これらのシーンが語っていることは明快だ。それは戦争の残酷さと無意味さであり、憎しみの恐ろしさである。イワンの無表情には恐ろしい憎しみが満ち満ちている。少年をここまで駆り立てる憎しみ、それは現在の世界が抱えるテロ合戦の原因となっている“憎しみの連鎖”を思い起こさずにはいない。イスラム原理主義者と呼ばれる人々のテロ組織に吸い込まれていく少年たちもこのイワンのように憎しみを抱えているのだ。
この作品では憎しみに駆られたイワンの行動はソ連に勝利をもたらした。しかし、それは同時に大きな喪失をもたらし、この戦いにその喪失に値するほどの意味があったのかという大きな疑問を投げかけた。それはそれでひとつの考察に導く見方ではあるが、翻ってドイツの側から見ると、そこには憎しみの連鎖の契機が見られるのではないか。ソ連軍の行動によって殺された人々の肉親や仲間がソ連に対して抱く憎しみはイワンの抱く憎しみと同じものだ。客観的に見れば、ナチズムの非人間性を非難することは簡単だが、肉親や仲間が殺された人々には思想以前に憎しみが意味を持ってしまう。そのとき自分の憎しみを晴らす手段としてナチズムが有効ならば、その人は再びナチズムにしがみつくだろう。
“憎しみの連鎖”というシステムはそのようにして憎しみと暴力を果てしなく再生産していく。どちらがいい、悪いではなく、敵か味方かで相手を二分する限り、その連鎖は永遠に止まらない。その価値観を翻すには、その二文法自体を崩さなければならないのだが、それはこの映画のような作品をもってしても難しいのだ。