傷跡
2006/11/29
Blizna
1976年,ポーランド,104分
- 監督
- クシシュトフ・キエシロフスキー
- 原作
- ロミュアルド・カラス
- 脚本
- ロミュアルド・カラス
- クシシュトフ・キエシロフスキー
- 撮影
- スラヴォミール・イジャック
- 音楽
- スタニスワフ・ラドワン
- 出演
- フランツェク・ピエツカ
- マリウス・ドゥモチョウスキ
- イエルジー・スチュエル
- アニエスカ・ホランド
ポーランドの田舎町に工場建設の話が持ち上がり、その監督官としてワルシャワから地元出身のステファンが派遣される。過去のいさかいから地元に戻りたがらない妻を置き、ステファンは一人現場に赴く…
ポーランド社会の現状を鋭く描きながら、重厚な人間ドラマを作り上げた。ポーランドの巨匠キエシロフスキーの長編デビュー作。
ポーランドという静かな国を舞台にしたこのドラマにはさまざまなものが詰まっている。物語としては工場建設が中心というなんとも地味な内容だが、その背後にはほのめかされた過去をめぐる物語があり、そして人間が普遍的に抱える社会とのかかわりという問題が存在している。
ステファンが直面する工事の問題とは単に経済の問題であったり、人々の権利の問題ではない。そこにあるのは生活であり、政治や経済とは関係のない個人の感情の問題なのである。社会主義という公共の価値観を重視する社会において個人の感情というのは無視されがちだけれど、個別の事象を見ていけば社会主義社会であれ、資本主義社会であれ、根底にあるのはあくまで個人であるということは明らかだ。
その、社会体制とは関係のない普遍的な問題としての人間、この作品はそれを描いているから、時代背景や地域の特殊性にかかわらず面白い作品となっているのだ。
主人公のステファンが抱えるのは簡単に言ってしまえば仕事と家庭の問題である。その二つの問題は常に密接に係わり合い、それこそが彼の人生になる。ある程度の権力を握った彼の仕事は彼の家族関係にも影響を与える。彼の家族の問題は仕事に影響を与える。その一つ一つは大きな問題ではなく、これといった明確なテーマも存在しないのだが、人間の成り立ちとはそのような小さな物事が複雑に絡み合うことによってできているものであり、この映画はまさにそのような人間の姿を描いているといえる。
だからこそ、この映画を見ながら色々考えてしまう。それは何か問いかけをされてその答えを探しているというよりは、ただ漠然と彼の境遇について考えているという感じだ。この映画は観客をどこかに導くのではなく、観客がさまよう余地を与える。その余地の中でさまよいながら、観客はこの物語の意味を探る。おそらくそこで見出される意味は見る人ごと違うだろう。そして、それは違っていいのだ。そのような自由さがこの作品にはある。
とはいえ、ひとつのテーマとして社会主義体制の官僚主義が上げられていることは明らかだ。この主人公のステファンは党の上層部にまで上り詰めた人物だが、官僚主義には染まらず、市民たちの信用を得る。しかし、それによって市民たちが彼に直訴すること、そして彼がそれに答えることは、官僚主義のシステムを崩すことであり、それが党の不興を買うことになる。
しかし、これはステファン対党という2項対立の物語ではない。官僚主義と対立しているように見えるステファンも無意識に官僚主義に染まってもいるのだ。それは別に矛盾ではない。彼はあくまでも官僚であり、単に官僚主義から市民(個人の感情に駆動されている)のほうへと歩み寄っている人間に過ぎないのだ。彼は社会主義の変革者でも何もなく、社会主義の理念に従って市民の生活と国全体の発展のために仕事をしている人間に過ぎない。その国全体の理念の中で、権力を持つ官僚でありながら現場に立つ彼は、官僚主義と市民の感情との乖離に直面しているというだけのことなのである。
だからこれはまさに社会主義社会の問題点を指摘した映画であるといえる。しかし、このような権力と市民の乖離はどのような社会体制においても見られることであり、その意味では人間と社会との普遍的な関係について問うた作品であるともいえるのだ。
若きキシエルフスキーは社会問題に意欲的に取り組みながら、じっくりと人間を描いた。それは彼がポーランドという社会の中で人間について問い続けるスタートとして非常にすばらしいものだっただろう。