銭形平次捕物控 地獄の門
2006/12/11
1952年,日本,93分
- 監督
- 森一生
- 原作
- 野村胡堂
- 脚本
- 伊藤大輔
- 撮影
- 牧田行正
- 音楽
- 西梧郎
- 出演
- 長谷川一夫
- 花菱アチャコ
- 三浦光子
- 高杉早苗
- 河津清三郎
- 日高澄子
- 長谷川裕見子
- 沢村国太郎
かつて独身時代の錢形平次をお靜と張り合った踊りの師匠香女菊のところに脅迫状が来る。香女菊はそれを平次の手下の八五郎に話すが八五郎はなかなか取り次ごうとしない。同じ頃、仏師の宮園民部の娘お吉も同じような脅迫状が来たと言って八五郎に相談しに来る。そして、それは連続殺人事件へと発展し、銭形平次が解決に乗り出す…
長谷川一夫の人気シリーズ『銭形平次捕物控』の第4作。
長谷川一夫の銭形平次はもったいぶって登場する。まず事件が起き、それを他の御用聞が調べて、どうにも手に負えない事件になりそうだとなったところで、八五郎が「てーへんだーてーへんだー」と親分の家に駆け込むとい寸法である。そして、八五郎がちょっととぼけたことをした後で、ようやく親分が登場。大体最初はバックショットで、BGMを鳴らしながらふっと振り返ると、甘いマスクに微笑が浮かんでいる。これが長谷川一夫の銭形平次。あくまでも二枚目、あくまでもかっこよく、御用聞きなんて泥臭い仕事には似合わない粋に着物を着こなす若旦那である。
だから、リアリティなどないといえばないのだが、この平次は大岡越前のように江戸時代からの講談やらなにやらに基づく人物ではなく、あくまでも昭和になってから野村胡堂によって創作された人物なのだ。そこにあるのはリアルな江戸風俗や江戸時代の人々の生活ではなく、昭和の時代の庶民の生活を映したものである。江戸から昭和へと時代は大きく変わったように思えるが、変わったのは外見ばかりで人々の中身は一向に変わっていない。そんなことをこの銭形平次というドラマは描いている。
そんな人物として作り上げられた平次は、江戸時代の御用聞/岡引というよりは、現代の刑事のような人物だ。刑事コロンボか古畑任三郎か。いや、犯人は最後までわからないのだから、むしろシャーロック・ホームズのような探偵なのかもしれない。ともかく、平次は時代劇における御用聞というよりは、スマートな探偵を江戸の時代に当てはめたらこういう人物になるだろうという人物なのだ。だから、すごくスマートで粋で二枚目、しかし正義感が強く、人情に厚い。権力の側にいるよりも人々の側にいて、人々のために知恵を絞る。だからいったいどこで金を儲けるのかとか、そういう点のリアリティはどうもよく、純粋な推理ものとして楽しめればいいのだ。
さて、ここで肝心の物語である。最初にも書いたがこれはどこを切っても推理小説、江戸を舞台にした刑事者である。映画としてはもちろん長谷川一夫がアクションも含めて格好いいとか、脇役で登場するコメディアンたちが面白いとか、そういう要素もあるのだが、やはりこの作品を今見るならば、物語として面白くなければ見るにたえない。そしてそれには、その謎解きが面白いかどうかというところが問題になってくるのだ。
そして、それが面白いからこそ今でも「銭形平次」は人気があるのだろう。いい推理ものというのは時代を越えて愛される。この「銭形平次」そのひとつの例である。今回見た2作品はどちらも連続して被害者が狙われる事件であり、それは関連性から推理の面白さを楽しめる物語であった。次は誰が狙われるのか、そして誰が犯人なのか、ワクワクしながらそれを見る。そんな推理物の普通の楽しみ方が出来る。
しかし、少し犯人がわかり安すぎはしまいかと思う。疑わしい人がたくさんいて、それが徐々に絞られていくというよりは、誰が犯人かわからないが、犯人の姿などがちらりと見えるなどして観客には犯人がわかっていく。そしてそれらのヒントは観客だけに与えられていて、平次には与えられないのだ。だから、観客は途中までは平次と同じように暗中模索という気分を味わうのだけれど、途中からは平次の知らない犯人をうすうすながら知っていて、そこにたどり着く平次の推理を楽しむという形になる。
これは実は推理もののふたつのパターンを折衷したものである。ひとつは推理する探偵なり刑事なりと一体化して、少ないかぎから犯人を導き出すことを楽しむパターンで、ホームズがその代表的な例だ。これに対して、観客は最初に犯人を知っていて、刑事なり探偵が、そこにどうたどり着くかを楽しむというパターンがあり、この代表はなんと言ってもコロンボである。この後者のパターンというのは実は文章で読んでも余り面白くなく、映像になってこそ楽しめるということが多い。それは映像ならではの心理描写が面白く、犯人と刑事との駆け引きを楽しめるからだ。文章だと表情などの観客が読み取れるようか微妙な要素を描きこむことが出来ない。
この作品は、そのふたつのいいとこどりをしているかのように見えて実は、後者のよさを生かしきれていないのではないか。犯人を観客はわかっているけれど平次はわかっていないというタイミングの描写がそれほど生かされておらず、むしろその時間が中だるみの時間のようになってしまう。そこにちょっとしたお笑いの要素などを入れたりしてお茶を濁したりもするのだが、やはり推理ものとしての緊張感がそがれてしまって今ひとつと言わざるを得ない。