世界
2006/12/15
世界
2004年,日本=フランス=中国,133分
- 監督
- ジャ・ジャンクー
- 脚本
- ジャ・ジャンクー
- 撮影
- ユー・リクウァイ
- 音楽
- リン・チャン
- 出演
- チャオ・タオ
- チェン・タイシェン
- ワン・ホンウェイ
- ジン・ジュエ
- チャン・チョンウェイ
北京郊外にある“世界公園”でダンサーとして働くタオは周囲から“姐さん”と呼ばれ慕われている。そんな彼女の恋人は同じ公園の警備主任のタイシェンである。そこにロシア人のダンサーたちがやってきたり、タオの分かれた男が訪ねてきたりと様々なことが起きる。
ジャ・ジャンクーが『青の稲妻』以来2年ぶりに撮った作品。オフィス北野とビターズ・エンドが製作に参加している。
この作り物じみた公園で展開されるドラマにはやはりどこか作り物じみた雰囲気がある。世界の名所がミニチュアサイズであるという日本のどこかにもあるようなこの公園には多くの人々が訪ねてくるのだけれど、どこか空々しい。そこで働く人たちも仲良くしているように見えるのだけれど、何か寂寞とした印象がぬぐえない。
その原因はおそらく、人と人とのつながりの希薄さなのではないか。それは結局、ここに描かれている人たちが結ぶ関係が基本的に表面的なものにとどまっていることにある。それはこの公園が「世界」の表面をさらりとなぞっただけのものであることと共通している。
そんな中でタオだけは他の人と人間的な関係を結び、表層の奥へと入って行こうとしている。ロシアからやってきたアンナとも言葉は通じないけれど心で通じようとする。そして恋人であるタイシェンとの関係も同じである。
それは何か、ここに描かれた中国の現代社会の根本的な問題なのかも知れないと思う。タイシェンは表層的な関係を結ぶことに慣れきっていて、タオとの関係もそのようなものとして運ぼうとする。タイシェンは関係のつながりを確認するために物理的な証拠を求める。愛している証拠を見せろと言って肉体関係を迫るのだ。それこそがまさに彼が表層的な関係に囚われていることの証拠である。心で通じ合うということに対して確信がもてないから、表層である肉体でつながりあうことで安心しようとするのである。
ここに描かれているのは現代社会の哀しみそのものなのだろうか。中国も急速に近代化すると共に人と人との関係が希薄化してしまったということを描こうとしているのだろうか。それでもやはりそこには故郷との深いつながりも描かれている。特にタイシェンと故郷の人々との関係は北京という都会で築かれた関係とは明らかに違っている。その違いが意味するものは何なのか? 古きよき時代へのノスタルジーか、それとも新しいものと古いものの接合による新たな価値観の創出か。
この作品の問題は、物語がその曖昧な部分で浮遊し続けているところにある。「結局何が言いたいのか」という結論を求めると、そこには何も出てこないし、何も出てこなくていいような完成されたイメージも存在しない。結局日常の一部を切り取っただけに終わってしまうことで、退屈なものになってしまうのだ。ただそこにあるだけの誰かの日常に私たちは感情移入することはできない。そこから何かをひねり出そうという元気があるときはいいが、そうでないときはなかなかつらい。