アルフィー
2006/12/21
Alfie
2004年,アメリカ,105分
- 監督
- チャールズ・シャイア
- 原作
- ビル・ノートン
- 脚本
- チャールズ・シャイア
- エレイン・ポープ
- 撮影
- アシュレイ・ロウ
- 音楽
- ミック・ジャガー
- ジョン・パウエル
- 出演
- ジュード・ロウ
- マリサ・トメイ
- オマー・エップス
- ジェーン・クラコウスキー
- スーザン・サランドン
イギリスからニュー・ヨークにやってきてリムジンの運転手をするアルフィーはいわゆるナンパ師でいろいろな女性と関係を持っていたのだが、家に帰りたくないときは“準”ガールフレンドのジュリーのところにも行っていた。そんな彼が次に目をつけたのは超リッチな50女リズだった。
60年代にヒットした同名作品のリメイク。ジュード・ロウはなかなかのはまり役だが…
次々と女を乗り換えるプレイボーイが真実の愛に悩むというのはどこかで聞いたような話だ。そのようにいろいろな女と関係をするプレイボーイというのはおそらく本能的な部分で男の憧れなのだろうが同時に理性的な部分でひとりの愛する人を見つけたいという願望がある。このふたつのバランスをとる物語としてこのようなモチーフがよく扱われるということなのだろう。思い出して見ると、最近では『50回目のファースト・キス』でアダム・サンドラーが演じたのもそのような役だった。
そんな中、ジュード・ロウが何か新しいことを表現しているのかというと、それは特にない。そもそも彼は何を求めているのか。自由なのか、愛なのか。彼は結局、愛のようなものをもつけると、それにどうしようもなく惹かれてしまうのだけれど、結局自分の自由に見切りをつけることができず、その愛を裏切ったり、その愛に裏切られてしまうのだ。つまり彼は内心では愛を求めているのだけれど、自分でそれを認めようとせず、そのために無意識にその愛を遠ざけてしまうのだろう。
なんだか、精神分析的なことを書いてしまったが、最近のこの手の映画はそのような精神分析的なことをベースに作られていることが多いような気がする。それは精神分析というものが大衆化し、素人でも登場人物の行動からある程度の精神構造が分析できるようになったからだと思うが、それもちょっと食傷気味ではある。
そして、この作品がどうもしっくり来ない最大の原因は、画面に(つまり観客に)語りかけるというそのスタイルにあると思う。このスタイルをとる以上、この物語は徹底的に主観的にならざるを得ない。観客はアルフィーの視点に縛られ、彼の視点からしか物事を見ることが出来ない。にもかかわらず、その視点の主を観客は精神分析的に見てしまうのである。それはどこかで自分の内面を自分で覗き込んでいるような居心地の悪さに通じる。
この作品では“Desire”という文字がわざわざ大写しで移されるように「欲望」というものを分析的に見てしまっている。主観的な語り手(つまり観客が投影する人物)の欲望を分析的に見るということは自己分析を迫られるということであり、そんなことをこんな映画で、しかもこんな人物に当てはめてやるなんてのはどうにもナンセンスな話だと私には思えてしまう。
オリジナルは見ていないのだが、オリジナルが作られた60年代という時代を考えると、同じスタイルをとっていてもその頃のほうが素朴で楽しく見られるものになっているのではないかということは想像に難くない。欲望と愛が単純な形で対立させられたのだとしたら、欲望が愛に変わる瞬間のカタルシスを表現することができるだろうからだ。
まあ、とりあえずこの作品は「ふ~ん」という感じで終わり、特に考えるべきこともなく、ジュード・ロウの軽さはよかったなぁなどという感想を持つにとどまった。