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ベストセラー

雪之丞変化

★★★.5-

2006/12/29
1963年,日本,113分

監督
市川崑
原作
三上於菟吉
脚本
伊藤大輔
衣笠貞之助
シナリオ
和田夏十
撮影
小林節雄
音楽
芥川也寸志
八木正生
出演
長谷川一夫
山本富士子
若尾文子
中村鴈治郎
市川雷蔵
船越英二
勝新太郎
preview
 江戸は市村座の舞台に上がった上方歌舞伎の花形、中村雪之丞。彼は桟敷に居る将軍の側室浪路のこころを瞬時に射止める。実は浪路の父土部三斎は雪之丞の親の仇、雪之丞が子供のころ長崎で雪之丞の父を姦計によって陥れ、ついには首をくくったのだった。雪之丞はその敵討ちの機会を待ち続け、ついに仇にめぐりあったのだ…
  三上於菟吉の原作を衣笠貞之助が35-36年に映画化した『雪之丞変化』三部作の再映画化。前作でも主演した長谷川一夫の出演300作記念作品として製作された。
review

 前回30年前に雪之丞を演じたとき、林長二郎は20代にしてその演技力と迫力で俳優としての器の大きさを世に知らしめた。本来の男として演じる闇太郎、女形の役である雪之丞、そして女の役である母親、母親を演じたのは短時間ではあったけれど、その演じわけと、それぞれの演技の見事さはこれぞまさに名演技という演技であった。
  今回の雪之丞も、前作とほとんど同じ設定で、長谷川一夫が雪之丞と闇太郎を演じている。母親のほうはシナリオの関係からか登場シーンがなくなり、長谷川一夫が演じるということはなくなったが、それでも全く違うふたつの役柄を演じている。
  しかし、はっきり言ってしまえば、出演300作、50代半ばを迎えた長谷川一夫が、20代の女形を演じるというのは相当につらかった。演技のうまさは流石のものだが、容色の衰えは化粧や演技によってはなかなかカバーできない。特にこの作品はカラーでもあり、クロースアップを多用する作品でもあることでどうしてもその容色の衰えが目に付く作品となってしまったといわざるを得ない。アップでよれば皺が目立つし、若かりしころのつやつやとしたそれこそ女のような肌触りを表現することは無理だった。しかし、不思議なことにこの63年の作品のほうが雪之丞はむしろ女らしい。35年の雪之丞は女らしいというよりは、女形らしい、女を演じている男という複雑な役柄を見事に表現している感じだった。しかし、この63年の作品では、雪之丞はもうほとんど完全に女の役となっているように思える。女形を演じるときに、常に少し左に傾いでいるしぐさは相変わらずだが、そのしゃべり方や体の動かし方は女形であることを超えて女らしさを感じさせもするのだ。
  それは、もちろん長谷川一夫の役者としての向上ではある。女形としてはより女らしくみえる演技ができるほうがうまい役者であるわけだから。しかし、この雪之丞は女ではなく女形である。したがって、女を演じるのではなく、あくまでも女形を演じなければならないのだ。そこに微妙なずれがあるから、雪之丞が浪路とひしと抱き合うシーンなどには違和感を感じざるを得ない。浪路は男としての雪之丞に惚れたはずなのに、画面に映っている雪之丞はまるで女にしか見えないのだから。
  果たしてそのような齟齬が起きてしまうのはなぜなのか。長谷川一夫は役者として力量を増し、映画はさまざまな技術を手に入れた。にもかかわらず、30年前の作品と比べたときにむしろ見劣りするのはなぜなのか。

 そのようなことを考えたとき、この作品の映画としての新しさも目に付いてくる。監督の市川崑はこの頃すでに実力派のひとりであり、モダニズムの旗手のひとりであった。だから彼の作風は風変わりというわけではなかったが、それでもやはり新しい作品を作る映画作家の一人ではあった。この作品でも、時代劇であるにもかかわらず音楽にジャズを使うなどして映画としての新しい雰囲気を作り出している。
  そして映像面でも、奥行きのない平面的な映像を多用するという工夫をしている。これはおそらくこの作品がモチーフにしているのが舞台であるということとも関係してくるのだと思うが、基本的に奥行きが存在することで(舞台と比べて)リアリティがあるという点で有利な映画というメディアの優位性を放棄しているという意味で面白いし、映画の試みとして新しい。もちろんこのようなことをやったのは市川崑だけではなく、同時代のモダニズムの作家の多くがこのような試みをやったわけだが、しかし長谷川一夫の30年以上の前の作品のリメイクである『雪之丞変化』でそれをやるということの意味は大きいと思う。
  そして、そのような平面的な映像と極端なクロースアップを組み合わせることでこの作品は独特の雰囲気とテンポを作り上げている。しかし、その映画の新しさと個性と、長谷川一夫という役者とが今ひとつマッチしていないように私には見える。雷蔵や勝新や山本富士子はそのテンポにピタリとあっているし、市川崑の盟友である小林節夫が作り出す画面の片側に被写体を寄せた魅力的な映像にもピタリとはまっている。しかし、長谷川一夫は黒一色のバックにクロースアップの横顔が写るという繰り返される見所のシーンであっても、どこかミスマッチが存在しているように見えてしまうのだ。

 そのような映画と長谷川一夫とのミスマッチが彼を最終的に映画界から遠ざけたのではないだろうか。彼はこの作品が公開された63年を最後に映画には出演していない。映画を離れて歌舞伎の舞台に専念するようになったのだ。壮年に差し掛かり、彼の活躍の場が映画界ではなく歌舞伎界になったのは、この作品を見て、35年の作品と見比べて見ると当然という気がしてくる。オールド・ファンが追い求める「永遠の二枚目」長谷川一夫の男前は年とともに崩れ、クロースアップにたえられなくなってしまった。二枚目で爆発的な人気を誇った彼は、抜群の演技力を持つにもかかわらず、それこそアイドル女優のように年齢による容色の衰えのために映画界を去らねばならなかった。もちろん、彼はそれで落ちぶれたというわけではないし、彼自身もむしろその方がよかったのだろうとは思うが、それでもやはり長谷川一夫ほどの大スターが映画界を離れざるを得なかったということには一抹の寂しさを覚える。
  35年の『雪之丞変化』は総集編として残された部分以外は失われてしまった。そして63年の『雪之丞変化』がとられた後、長谷川一夫という役者を映画界は失ってしまった。その作品が、作品以外の部分で持つ一抹の寂しさは、この作品自体が持つ寂しさと呼応しているのではないか。この物語の主人公雪之丞は見事に仇討ちを果たした。しかし、その結末には爽快感や達成感はなく、寂しさだけが存在した。それはふたつの作品のどちらにも共通した要素なのである。
  そして、その寂しさが35年の作品では余韻として非常にいい味を生み出しているのに対して、はこの65年の作品では、最後の語りによって結末じみたものになっている。私が考えるところではこの物語に結末はいらないのだ。この物語が孕む重要なエッセンスのひとつは、この雪之丞が親の仇を討つために生きてきて、それを達成した。にもかかわらず彼の人生が終わるわけではないということだ。仇討ちが人生の目標となっていた雪之丞がその目標を達成したとき残るものはいったい何なのか。それを考えることは、人生というものを考えることに直結する。そしてそのためには結論じみたものを映画の最後に付け加えるよりも、何もない余韻とともに映画が終わったほうがいいのだ。

 だから、この『雪之丞変化』という作品はオリジナルのほうがリメイクよりもさまざまな点で優れていると言わざるを得ない。オリジナルの作品はまさに名作の域に達しているが、このリメイクはそれほどの作品ではない。その作られた時代性を象徴してはいるが、現在見るならば、オリジナルのほうがはるかに面白いと思う。しかし、それは失われてしまったのだ。それらさまざまなことを含めて、この映画には考えさせられる。

Database参照
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監督順: 
国別・年順: 日本60~80年代

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