春琴抄
2007/1/4
1976年,日本,97分
- 監督
- 西河克己
- 原作
- 谷崎潤一郎
- 脚本
- 西河克己
- 衣笠貞之助
- 撮影
- 萩原憲治
- 音楽
- 佐藤勝
- 出演
- 山口百恵
- 三浦友和
- 中村竹弥
- 風見章子
- 津川雅彦
- 中村伸郎
- 小松方正
- 名古屋章
明治15年、大阪の薬種問屋鵙屋の次女お琴は目が見えず、お琴の稽古の行きかえりは丁稚の佐助が付き添っていた。ある日、その佐助の父親が田舎から出てくるが、お琴は佐助でなくてはと言って佐助をつれて出かけてしまう。その男を見初めた遊び人の美濃屋のわかぼんは彼女を目当てにことを習うことにするが…
谷崎潤一郎の『春琴抄』の4度目の映画化。山口百恵と三浦友和の共演作品のひとつで、アイドル映画という印象が強い。
これは山口百恵と三浦友和というふたりのアイドルの映画である。もちろん原作は谷崎潤一郎の「春琴抄」であり、これまでにも数度映画化されているわけだが、この作品はその原作の世界を描こうとしているとはとても思えないし、これまでの映画と比べるのもはばかれるできであると思う。
というのは、主人公のお琴と佐助の関係性があまりに単純化されすぎているのだ。この物語において、お琴と佐助の関係は、基本的に佐助がお琴に想いを寄せ続け、お琴は佐助を頼ってはいるけれど、あくまでも使用人であり、弟子であるということがまず先に来ている。だから、本来あるはずのふたりの微妙な距離、踏め越えたいのだけれど、変化を恐れるがために踏み越えられない敷居というモノがそこに見えてこないのだ。
この映画がそのようになってしまった理由は、もちろん脚本と演出の責任も大きいわけだが、それだけではない。
映画を見るとき、それがいい映画ならば役者の演技というのはよっぽどうまい演技でなければ、意識するということはほとんどない。役者が演じていることを観客が忘れてしまうような演技こそがいい演技であり、そのような演じられた人物ばかりで攻勢されているのがいい映画なのだ。しかし、この映画では否応なく役者の演技というものが意識されてしまう。主役のふたり、特に三浦友和は演じるべき微妙な感情を演じ損なっているとついつい感じてしまうのだ。
もちろん山口百恵もうまいとはいえないが、彼女の役は目が見えないということで単純化され、演じやすくなっているからそれほどあらは目立たない。それに対して三浦友和の演じる佐助は、目に見えない相手に対する感情を画面に対して表現しなくてはならないにもかかわらず、それがほとんどできていないのだ。今はそれなりにいい役者といえる三浦友和だが、若かりし日はアイドル的な存在でしかなかったのだということを痛感させられる。
そのようなことに邪魔されて、この映画では原作の面白みを体験することはできない。谷崎潤一郎の変態的な雰囲気を感じることはまったくできないのだ。
谷崎は次々と映画化される自作について、京マチ子が演じたお琴についてだけ自分の想像にぴったりだと述べたことがあるという。谷崎は京マチ子のイメージを好んだらしく、『鍵』の主人公にも京マチ子のイメージを採用したらしい。
谷崎がこの山口百恵と三浦友和を見たら卒倒してしまったのではないか。あるいは映画の堕落を嘆いたか。
「谷崎と映画」について考えるとき、まず谷崎と映画のかかわりについて考えるが、谷崎がなくなった後も彼の作品は映画化され続ける。そして、その作品の多くは箸にも棒にもかからないような作品で、中には官能的な部分だけを取り出したポルノ映画まがいのものもある。「谷崎と映画」というとどうしてもその文芸作品としての重厚さを表現した映画の子とばかりを考えるが、しかし実はそうではない映画も谷崎の映画であり、谷崎潤一郎という作家の残した遺産なのである。
谷崎の作品世界とは似ても似つかないからと行ってそれを排除するのではなく、何故谷崎の作品からそのような作品が生れるのかを考えるべきなのだ。そうすることによって、谷崎潤一郎という作家とその作品が持つ様々な側面が見えてくる。“文豪”という名前と“名作”という看板の背後にある谷崎の卑猥だったり、軽薄だったりする部分を、実は不出来な映画こそが表現しているのではないか。
夏目漱石の作品はほとんど映画化されないのに、谷崎の作品はどんどん映画化される。そこには、谷崎の作品が映画らしい卑猥さと軽薄さをもっているからなのではないか。若かりし日に映画に関わろうとしたほど映画というものに興味を惹かれた谷崎の作品はどこか映画的なのだ。そのように谷崎と映画の関係を考えると、それは文学と映画の関係を考えるのにも役立つ。表面的には文学が映画化されるばかりだが、実はここ数十年の間に文学もどんどん映画的になってきている。谷崎は、そのような文学の映画化の先駆け的な存在だったのではないかと思うのだ。