白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々
2007/1/10
Sophie Scholl - Die Letzten Tage
2005年,ドイツ,121分
- 監督
- マルク・ローテムント
- 脚本
- フレート・ブレイナースドーファー
- 撮影
- マルティン・ランガー
- 音楽
- ラインホルト・ハイル
- 出演
- ユリア・イェンチ
- アレクサンダー・ヘルト
- ファビアン・ヒンリンス
- ヨハンナ・ガストドロフ
- アンドレ・ヘンニック
- フロリアン・シュテッター
1943年ドイツ・ミュンヘン、反ナチの地下活動をする学生たちの組織“白バラ”のメンバーの一人ハンス・ショルは妹のゾフィーとともに大学でビラまきをすることを決意する。トランクにビラを詰め、大学に向かった2人は見事ビラまきに成功するが、その場でゲシュタポに逮捕されてしまう…
実在した“白バラ”とゾフィー・ショルの活動を90年代に新たに発見された記録を元に再現した社会派ドラマ。
ソフィー・ゾルという人のことは知らなかったが、反ナチ抵抗運動ということで興味深く見ることが出来た。物語はソフィーとハンスがビラをまくことを決意してから5日間を描いたもので、“最期の日々”と題されていることからその最後に彼女が死んでしまうということはあらかじめ予告されている(原題の“Die Letzten Tage”が「最期の日々」という意味)。
そのように結末がわかっていてもこの物語にはスリルがあり、面白みがある。それはここに描かれているのがゾフィーと周囲の人々の間の感情の行き来を描いたものであるからだ。彼女の運命がどうなるかという物語ではなく、彼女によって彼女の周囲がどう変わるのか、それを描いた物語であるのだ。彼女の取調べをした警察官、同房の囚人、彼女を裁く判事、そして傍聴人たち、彼らの心に彼女が何を残したのか、それがこの物語が描くものなのである。
死刑という恐怖を前にして、自分の信念と家族や仲間の安全の間で悩み、苦渋の選択を迫られるゾフィーを警察官は追い込んで行く。私たちはゾフィーの選択に嘆息しながら正義について考えざるを得ない。
少々ゾフィーをヒーローとして称えすぎているという気がするし、敗色濃厚のドイツにしては全てがこぎれい過ぎるという難点はあるが、ゾフィー・ショルの物語に絞ってみれば、非常にリアルで面白い。ナチの側も決して盲目的に否定はされない。ナチの尋問は拷問や脅迫によるのではない。彼女の信念を曲げさせようという精神的な攻撃によって彼女を追い込むのだ。このことによって観客は感情的ではなく、理知的に映画ができるようになるのではないか。ナチを盲目的に批判するのではなく、与えられた(悲惨な)環境として描くことで、その中で信念を貫いて生きることの意味をこの映画は問うているのである。
しかしやはり、日本人としてこの映画を見るとき、否応なく“過去”について考えさせられる。
ドイツは常に自国の歴史と向き合っている。ヒステリックに“反ナチ”を叫びすぎているという気がするときもないわけではないが、ナチが歴史に残した傷跡を修復するためにはそれくらいヒステリックに叫び続けなければならないのである。それに比べて日本はどうだろうか。日本軍の蛮行(従軍慰安婦や南京大虐殺)からは眼を背け、その精神を美化しさえする。ドイツでこの作品が作られる一方で日本では『男たちの大和』が作られていたのだ。南京大虐殺についてはその真偽が明らかではないというが、少なくともそこで蛮行が行われたことは明らかなのだから、その真実を明らかにし、自国の過去を批判することによって日本がアジアで行った蛮行を必死に修復しようとしなければならないのではないか。
“愛国心”を抱くには、自分の国に愛情を抱くことができなければならない。果たして恥ずべき過去に向き合うことをしない国などに愛情を抱けるだろうか。“愛国心”というものがそれも含めて国を愛せということならば、それは自律心を放棄せよということである。それではナチよりもひどい。
この映画の中でゾフィーを取り調べる警察官はナチを擁護する。それはまさにナチズムの暗部に目を向けないようにし、肯定的な部分のみを見ようとする態度によって成り立っている。それをもたらすのは教育と恐怖である。教育によって暗い部分を疑わしいものとし、恐怖によって逆らおうとする者を支配する。今の日本はそのような方向に向かっていないだろうか? 大きな議論の的になっている共謀罪なども含めて考えるにはこの映画は大きなきっかけになると思う。