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春琴抄 お琴と佐助

★★★.5-

2007/1/13
1935年,日本,110分

監督
島津保次郎
原作
谷崎潤一郎
脚色
島津保次郎
撮影
桑原昴
出演
田中絹代
高田浩吉
斎藤達雄
藤野秀夫
葛城文子
坪内美子
谷麗光
preview
 明治15年、大阪の薬種問屋鵙屋の次女お琴は目が見えず、お琴の稽古の行きかえりは丁稚の佐助が付き添っていた。ある日、その佐助の父親が田舎から出てくるが、お琴は佐助でなくてはと言って佐助をつれて出かけてしまう。その先では、お琴を目当てにことの稽古に通うことにした美濃屋のわかぼんと鉢合わせになる…
  谷崎潤一郎の『春琴抄』を島津保次郎が映画化。この後さらに3回映画化されたが、この作品の田中絹代は抜群にいい。
review

 この『春琴抄』という物語は、お琴と佐助の関係が全てである。だからこそこの映画でも副題に「お琴と佐助」とつけられたわけだが、目の見えない不安感を抱え続けるお琴が、頼り切る佐助の存在、周囲から見れば、それは夫婦の関係になるのが自然のように見えるのだが、二人の間では事はそう単純ではない。もちろん、佐助がお琴に抱くのは恋心であり、お琴と添い遂げたいという一心の思いに焦がれている。そして、お琴のほうも佐助と一生をともにし、夫婦でありたいと思っているのに違いない。しかし、ふたりはそもそもは主人と下男という関係であり、しかも芸の上では今も師匠と弟子という関係である。この関係は、ふたりが夫婦になれば変化してしまう。その変化が悪いほうに傾き、危ういバランスで保たれているふたりの関係が崩れてしまうことを二人は最も恐れているのではないか。
  そのふたりの関係にはたびたび危機が訪れる。最初は小さな危機だが、三味線を練習していた佐助がそれを見付かって、三味線を禁じられる場面だ。ここはお琴の家族である店の主人らが佐助に芸事を許すことによって丸く収まるのが、佐助はこれによって店に居場所がなくなり、完全にお琴のためだけに働くようになる。この危機は逆にふたりの関係を密接にしたということになる。
  次の危機は、最大の危機ともいえるもので、お琴が子供を身ごもり、有馬温泉に養生に行くという場面である。それを聞いた佐助は心底驚き、彼女のみを案じるのだが、結局父親は明らかにならず、子供は養子に出される。この子供の父親はどう考えても佐助でしかありえない。つまり、ここですでにお琴と佐助はいわゆる夫婦の関係にあったということである。しかし、周囲には決してそのことを漏らさず、寝室も別にし、「佐助を婿養子にしてもよい」という親の言葉をお琴は突っぱねる。
  ここでも危機は乗り越えられ、お琴は弟子の若い娘に嫉妬したりもするのだが、ふたりの関係は安定したように見える。ふたりは信頼しあい、夫婦ではないが、本当の夫婦よりも強い絆で結ばれる。
  そのことが描かれているからこそ、最後のエピソードにも納得が行くのだ。何者かに煮え湯をかけられ、顔にやけどを負ってしまったお琴は佐助にその顔を見られるのを嫌がる。目が見えないのに自分の容姿を気にするというのも不思議な気がするが、目が見えないからこそ逆に気にするのではないかと思う。目は見えないが、容姿には自信があり、それが不安感を打ち消すひとつの力になっていたのに、それが奪われてしまった。これはお琴にとっては佐助との関係の危機でもある。やけどを負ってしまったことで佐助の気持ちが変わってしまうこと、それこそがお琴が最も怖れることなのだ。もちろん佐助がそんなことを気にするわけはない。二人はすでに容姿などというものを越えた信頼関係で結ばれており、そんなことで佐助の気持ちが離れて行くわけはないのだが、お琴はただただ不安に駆られる。それはまさしく目が見えないからこその不安、目が見えないからこそ目が見える佐助の気持ちを想像することが出来ず、不安をぬぐうことができない。
  だから、佐助は自分の目をつぶすのだ。それはお琴の姿を見ないために、という理由ということになっているが、実際はお琴の不安をぬぐうためである。目が見えなくなることで、お琴は佐助の気持ちを想像できるようになり、安心することができる。二人の絆を再び信じることができるようになる。佐助はそれを知っているから自分も盲になろうとするのだ。

 そこに至るまでの二人の積み重ねを描くこと、それがこの映画がやろうとすることである。最初、佐助を独占しようとする勝気なお琴が、少しずつ変化して行く様子、それは頼るということがただ相手に寄りかかるということではなく、お互いが1人でたっていながら寄りかかりあうという関係であるということを少しずつわかって行く。そのさまを描いているのだ。互いの自由を尊重しするが、しかし互いを信頼しているから安心していられる。そのような関係が少しずつできて行くのだ。
  そのようなふたりの関係を表す秀逸な場面がある。それは、梅見の席でひと悶着あったあと、お琴と佐助がふたりで物干し台に立ち、飼っているひばりを放して遊ばせているシーンである。佐助はお琴が言うとおりにひばりを放し、お琴はその鳴き声に耳を澄ます。ふたりはただひばりのことだけをしゃべり、安らかな気持ちになる。そこで二羽のひばりが空をくるくる回っているインサートが入り、その泣き声に耳を済ませるお琴のクロースアップなどが入る。この時の田中絹代の表情が本当にいい。目をつぶり、眉をひそめる表情は、心に空とそこに飛ぶ鳥を思い浮かべているその彼女の心の中が見えるように思える表情なのだ。
  そんなシーンであるが、最後にはひばりが一羽いなくなってしまう。しかし、ふたりはそのことをそれほど気に病むこともない。「どこへ行ってしまったのだろう」といいはするけれど、まるで鳥にはどこかへ飛んで行く自由があるかのような口ぶりなのである。そして、その口ぶりは、鳥がきっと帰ってくると信じているかのようにも聞こえる。
  これはふたりの関係を暗示しているのではないか。ふたりはもちろん離れることはないが、もし離れたとしても互いを信頼し、不安を感じない。それは、お琴が有馬温泉に行っていたときにお琴がそれほど不安を感じず、互いを信じて、再び一緒にいられるときが来るのを待っていたことからもわかる。そんなふたりを二羽のひばりが象徴的に表すのだ。
  しかし、その関係がその直後のシーンの事件(前述のお琴が煮え湯をかけられる事件)によって揺るがされ、一気にドラマティックな展開には行って行くのだ。この展開の強弱も、この映画が観客をひきつけるひとつの要因となっている。

Database参照
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国別・年順: 日本50年代以前

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