マリー・アントワネット
2007/1/17
Marie Antoinette
2006年,アメリカ,123分
- 監督
- ソフィア・コッポラ
- 原作
- アントニア・フレイザー
- 脚本
- ソフィア・コッポラ
- 撮影
- ランス・アコード
- 音楽
- ブライアン・レイツェル
- 出演
- キルステン・ダンスト
- ジェイソン・シュワルツマン
- リップ・トーン
- アーシア・アルジェント
- ジュディ・デイヴィス
オーストリア大公マリア・テレジアの末娘アントワーヌはオーストリアとフランスの同盟の強化のため14歳にしてフランク王国の王太子のところに嫁ぐことになった。風習の違いに戸惑ったのはもちろんだが、真の問題はセックスレスの夫婦生活にあった…
ソフィア・コッポラがマリー・アントワネットの生涯に新たな光を当てたアントニア・フレイザーの原作を映画化し、“女性”について様々な側面から考えた作品。
この映画において、歴史は常に物語の陰に隠れている。マリー・アントワネットといえば世界が大きく変わる変革期を生きた女性であり、歴史的に意味のある存在だった。しかし、彼女のその部分にフォーカスすることなく、アントワーヌという人物に焦点を当てることで歴史は物語の背景へと後退したわけだ。しかし、もちろん彼女は歴史に翻弄された女性であり、歴史を語らずして彼女の生涯を語ることができない。そのために、この作品にはどこか中途半端という印象が付きまとう。完全なる“ひとりの”女性の物語として見るには歴史的過ぎ、歴史の1ページを描いたものと見るには個人的すぎるのだ。
それはこの作品を多少退屈なものにして入るが、同時にそれこそがこの作品の面白さでもある。この中途半端さが示唆するのは彼女の人生こそがそのような宙ぶらりんの状態に置かれた人生であるということだ。彼女は決して“ひとりの”女性ではありえず、歴史を生きなければならなかったのだ。そのようにして衆目を集めた彼女の人生は常にプレッシャーに覆われたものだった。それはおそらく“普通の”女性の環境を増幅したものであるといえるだろう。誰もが他人との関係の中で様々なプレッシャーを受けるわけだが、彼女の場合はそれが国民全てであったのだ。
彼女を描くことで、女性が抱える葛藤を描くことがこの映画の眼目なのである。それは非常にソフィア・コッポラらしいテーマであると思う。
ただ、この映画が本当に面白いのは、その部分ではない。面白いのはソフィア・コッポラが仕掛けるくすぐりである。映画はポップ・ミュージックとともにはじまり、映画が展開し始めても、コスチューム以外で時代を感じさせるものはない。果たしてこれは歴史を描いたものなのか… これは映画であり、撮られたのが今であることは当然のこととしてある上で、これを歴史的なファンタジーとするのか、それともある種の“劇”とするのか、そのふたつの選択肢がある中で、ソフィア・コッポラはこれを“劇”とすることを選択した。
だから時代の整合性にこだわらずに音楽を使い、さらには見所のひとつであるファッションにおいても現代的な要素をたぶんに盛り込んで言った。歴史考証を正確にすると、おそらくこの時代の洋服に使われていた色彩というのはこれほどまでに鮮やかではなかったはずだ。それにこだわらないことで、この作品のファッションは原題の観客に大きくうったえるものになったし、さらにはこれが現代的であるということを観客に知らせるために、ソフィアは一足のコンバースをこっそりと忍び込ませたのだ。
歴史という点ではもうひとつ面白いクスグリがある。それはマリー・アントワネットが戦場にいる愛人のフェルゼン伯爵を想像するシーン、伯爵は「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」の姿で想像されるが、もちろんこの絵画はまだ描かれておらず、彼女がその絵を知る術はないのだ。
そしてファッションと同じく観客の目を引くのはお菓子の数々である。これはパリの老舗ラデュレ(元祖マカロンで有名)が作製したものということだが、その映像は非常に有効なスパイスとなっている。
そして、この色鮮やかさは、ヴェルサイユに殺到した暴徒のくすんだ色の服装と対比されることによってもうひとつのメッセージを発する。ここでもやはりマリー・アントワネットという個人と、社会の情勢とが否応なく対比されてしまうのである。