ファニー・ゲーム
2007/1/24
Funny Games
1997年,オーストリア,108分
- 監督
- ミヒャエル・ハネケ
- 脚本
- ミヒャエル・ハネケ
- 撮影
- ユルゲン・ユルゲス
- 出演
- スザンヌ・ロタール
- ウルリッヒ・ミューエ
- アルノ・フリッシュ
- フランク・ギーリング
バカンスのため湖のほとりの別荘へとやってきたショーバー一家、隣家に客人が訪ねて来ているらしく、ペーターとパウルという若者を紹介される。数時間後、卵を借りたいとやってきたペーターが卵を落として割ってしまうが、悪びれもせずもう4つくれという。その横柄な態度にアナは立腹するが、それは悲劇の始まりでしかなかった…
オーストリアの鬼才ミヒャエル・ハネケの1997年の作品、見る者を苛立たせずには置かない問題作。
突然、理由もわからず暴力を振るわれる、例えば通り魔のような存在に出会ったとき人はどう反応するだろうか? まず「なんで?」という疑問を覚え、それから憤慨する。何か理由があるのなら、その理由を取り除くなりなんなりすることで暴力から逃れられるか、少なくともそれに対処する方法を考えることが出来る。しかし、その理由がまったく見当たらないとき、人はそれにどう反応すればいいのか。
この作品は、そのような状況に置かれた人の心理を見事に描いている。隣家の友人だと思っていた2人の若者が、突然暴力をふるい、最終的には皆殺しにするつもりだと言い出す。それを観ている観客は、その被害者となったショーバー一家の人々と同じく、その理由を捜し求める。「なぜ、なぜ、なぜ?」と。しかし、その理由は決して見つからない。なぜなら理由などないからだ。
この2人がそのように暴力を振るう理由は、ただただ暴力を振るうということである。それに怯える姿を見たいのか、それとも人を打ちのめすこと自体が快感なのか、あるいは他に理由があるのかはわからないが、ともかく彼らはとにかく暴力を振るうことだけが目的で暴力を振るうのだ。
つまりここで描かれているのは純然たる暴力なのである。何かの報復とか、因果関係の中で振るわれる暴力ではなく、単なる暴力なのだ。暴力というものは時には正当化されうる。現在でも正当防衛としての暴力は許されるし、昔なら決闘や仇討は許容される暴力であった。そのように許容される暴力が存在することは暴力が本来持つ理不尽さや醜さをときに隠蔽する。暴力を振るうものがその暴力が正当化されることによってヒーローたりえ、その目的によって戦争が正当化されもするのだ。
しかし、暴力と言うのはそれが正当化されていようといまいと理不尽で醜いものであるのだ。この作品はそのことをじっくりと時間をかけて私たちに語りかけてくる。観客はこの作品を見ながらいつかはきっと救いが訪れるという希望を持ち続ける。逃げることができるか、助けが来るかして、暴力から逃れられるのだと。だが、その希望というのは圧倒的な暴力に対してあまりにも無力である。
この作品は非常に後味が悪い。なぜこんな作品を作るのかと憤慨したくもなる。しかし、このようにして暴力の前で私たちがいかに無力であるかを描くことで、暴力の理不尽さとむごたらしさが際立つのである。ここに描かれた暴力も、正当化された暴力も本質的な部分では変わらない。そのことを考えたとき、この作品よりも、ヒーローが悪人たちをバッタバッタと倒して行く作品のほうがどれだけ恐ろしく、後味が悪いものなのかと思い至るのだ。
そして、それは現実においてはより切実だ。通り魔、テロ、戦争、それらの暴力に直面してしまう人々の多くは因果関係の埒外において殺されている。それがいかに恐ろしいことか、そのことを考えると、本当に背筋も凍る思いがする。