瘋癲老人日記
2007/1/28
1962年,日本,99分
- 監督
- 木村恵吾
- 原作
- 谷崎潤一郎
- 脚本
- 木村恵吾
- 撮影
- 宗川信夫
- 音楽
- 小川寛興
- 出演
- 山村聡
- 若尾文子
- 東山千栄子
- 川崎敬三
- 村田知栄子
- 丹阿弥谷津子
すでに隠居した資産家の老人督助は付きっ切りの看病を必要とするほどだが、息子の嫁の颯子には甘く、実の娘には3万円の金も貸さないのに、颯子にはポンとお金を出してしまう。看護婦が息子の病気でこれなくなった日、その颯子が督助の看病をすることになるが…
『痴人の愛』を二度も映画化した木村恵吾が再度、谷崎作品に挑んだ映画。その変態さ加減は、谷崎作品の映画の中でも特筆すべきものである。
谷崎は変態である。この映画は谷崎の変態さが噴き出るように表現された映画だ。原作は読んでいないのでわからないが、この変態さは文字よりも映像のほうがストレートに伝わる種類のものだと思う。
この物語の主人公の老人督助はまもなく喜寿を迎える隠居した資産家で、家に女中やら看護婦やら運転手やらを住まわせ、妻と息子夫婦と住んでいる。元気そうなのだが、誰かが常に付き添ってやらなければならないということになっている。普段は看護婦が隣の部屋に寝ているのだが、その看護婦の息子が風邪をこじらせて来られないというある夜、息子の嫁の颯子にその役が回ってくる。
それだけなら話は簡単だが、その颯子というのが踊り子あがりの、夫の従弟と遊びまわっているような女で、夫は夫でいまは別の踊り子に熱を上げて家庭を顧みることもない。
そして件の老人だが、自ら食べることと「あっちのほう」にしか興味がわかないという御仁で、その息子の嫁にぞっこんほれ込んでしまっているのだ。その辺りは非常に単純化されている。自分の娘が3万円という金を借りに来ても、金がないといって突っぱねるのに、颯子にはバッグを買うためのお金3万5千円をぽんと渡すのだ。そして、その颯子のほうはその老人を手玉にとってどんどん金をもらってしまうのだから始末が悪い。
しかし、それは颯子が老人をだまくらかして、金を搾り取っているという関係ではない。颯子は歯に衣着せぬ言葉で老人を「気持ち悪い」などと言いながら、足をマッサージさせたり、シャワーに入っているところをのぞくことが出来るようにして、老人の欲望を充足させるのだ。老人は、老人扱いされるよりも、そのように虐げられるくらいに扱われることのほうに喜びを覚える。映画の段階ではすでにその関係が出来上がっていて、老人は颯子のことばかりを思って暮らしているようなのだ。そして、ついにその颯子の足に接吻することが許されたときの老人の表情のすごいこと。名優山村聡は変態を演じても名優、みごとな変態っぷりを見せるのだ。そして、その相手の颯子を演じる若尾文子も非常にいい。普段は冷淡で、不躾だが、決して老人を心底嫌っているわけではなく、どこかで愛情のようなものすら感じられるというその微妙な感情をみごとに演じ、しかも老人がつい狂ってしまうような妖艶な魅力もみごとに表現している。
この物語は、結局、拒絶されながらも求め続ける老人と、それを拒絶しながら受け入れている女というねじれた関係の物語であり、その関係がねじれているがゆえに、その関係の中心に位置する性的な関係もねじれたものになる。そして、その関係が足に接吻するということから始まったがゆえに、老人は颯子の足に執着し、足に対するフェティシズムを感じるようになる。そして同時に、足蹴にされいじめられることの快感からマゾヒズムへと導かれる。そして最後には、颯子の足型で仏足跡を作って、それを墓に刻みたいと言い出す。それは、どう考えても死んでも颯子に足蹴にされていたいという老人のマゾヒスティックな欲望の表れ以外の何者ではない。
ただそう書くだけだと、この物語はだまされた老人のかわいそうな話ということになりそうなのだが、そうではない。この映画のラストは、颯子に頼まれたプールの工事をにたにたと眺め、颯子の足拓を試すがめつ見ては悦に入る老人のシーンで終わっている。ここで彼は本当に幸せそうなのだ。妻や娘達になんと言われようと、彼はそのようにして颯子に自分の財産を注ぎ込むことがしあわせなのだ。彼の残り少ない人生はそのまま幸せに過ぎて行くだろう。だから、彼にとっては彼の人生はハッピーエンドなのだ。
ここには非常な谷崎らしさが見える。彼は変態性を肯定し、同時に利己性を肯定している。自分が幸せならそれでいいし、そのために変態になることが必要ならそれで言い。ここには谷崎のそんな快楽主義者的な顔が表れているのだ。
そして、谷崎と映画の親和性も、彼の快楽主義的な部分によっているのかもしれない。映画とはそもそも快楽である。観客は快楽を求めてスクリーンの前に座る。現実を忘れさせて、別世界に連れて行ってくれる快楽を求めて。映画はそのような観客の要求を満たすため、観客に快楽を提供する。そのため、映画は本質的に快楽主義者的なものなのである。そこに、映画と谷崎の親和性があるわけだが、谷崎作品の映画化ということになると、されに一歩進んで、ストレートに快楽主義的な作品が作られることが多いということにも注目したい。映画が観客を別世界に連れて行くという意味で快楽主義的なことを超えて、単純に映画を観ることが快楽であるような映画、そのような映画の材料として谷崎の作品が使われているのだ。
この作品などはまさにその典型であり、観客は変態的な快楽におぼれていく老人を見ることに快楽を覚える。彼が狂って行くようなその熱病のような感情は快楽そのものなのである。そして、かれのそのような感情を巣クエリーんをとおして体験することは、現実ではめられている常識や世間というたがが外れることによる快楽でもある。
そして、そのことは、この作品の監督が木村恵吾であるということにもつながってくる。木村恵吾といえば『狸御殿』シリーズなど脳天気な娯楽映画を数多く作った監督であり、マジメな文芸映画などには縁遠い。その木村恵吾が『痴人の愛』を2回と、この作品とで合計3回谷崎作品を手がけているのである。そのあいだには「快楽主義」という糸が見える。その点では『痴人の愛』『卍』『刺青』の3作品を手がけた増村保造もまたしかりだ。これに対して文芸映画の巨匠といわれる豊田四郎が手がけた谷崎作品は『猫と庄造と二人女』と『台所太平記』の2本である。どちらも快楽主義からは離れたもので、谷崎が別の一面をのぞかせる作品だ。もちろんこの映画がつまらないわけではない。しかし、やはり繰り返し映画化されるのは『痴人の愛』『刺青』『鍵』『春琴抄』といった快楽主義的な要素を持つ作品なのだ。この中で『春琴抄』だけは、ややメロドラマ的な傾向があるが、他の3作品は大胆なまでに快楽主義を推し進めた作品であるといえる。
それらが何度も映画化されるというのは、繰り返しになるがやはりその快楽主義の部分に谷崎と映画の親和性が存するからなのだと思う。