新婚道中記
2007/2/12
The Awful Truth
1936年,アメリカ,92分
- 監督
- レオ・マッケリー
- 原作
- アーサー・リッチマン
- 脚本
- ヴィナ・デルマー
- 撮影
- ジョセフ・ウォーカー
- 音楽
- モリス・W・ストロフ
- 出演
- アイリーン・ダン
- ケイリー・グラント
- ラルフ・ベラミー
- アレクサンダー・ダーシー
妻のルーシーにフロリダに行くといってうそをついて出かけたジェリーはスポーツクラブで肌を焼いて帰るが、ルーシーは不在、そのルーシーが車が故障したといって歌の教師のアーマンドと一緒に帰ってきたことで夫婦間に亀裂が入る。果ては離婚話に発展し、裁判で離婚が決まるが…
コメディの名匠レオ・マッケリーがアカデミー監督賞を受賞したロマンティック・コメディ。今でも楽しめるが、さすがにシンプルすぎる感も。
これはまさに古きよき時代の典型的なハリウッド映画である。ハリウッド映画とは何かといえば、結局それは恋愛に尽きるのである。サスペンス映画でも、アクション映画でも、ホラー映画でも、結局最後は男女が結ばれてなんとなくハッピーエンドであるかのように終わる。もちろん近年のハリウッド映画は必ずしもその図式にぴたりとはまるわけではないけれど、どこかにその構図が存在し、必ず恋愛がその物語のどこかに絡んできて、最終的にはその恋愛の結末が物語の結末であるかのように展開されるのである。
この作品は、ハリウッド映画がハリウッド映画である最大の理由とも言える恋愛の部分だけを描いた作品である。愛し合っているカップルが色々な紆余曲折はあったものの結局最後は気持ちを確かめ合うという話、行ってしまえばただそれだけの、そこに色々なギャグをちりばめただけの映画である。
登場する人たちもみな完全にステレオタイプ化されている。歌の教師の“大陸人”(おそらくフランス人)、オクラホマの田舎者、クラブの歌い手など、その肩書きどおりのイメージの人が登場するのである。そんなステレオタイプ化された人々が展開するステレオタイプ化された物語、今見ても決してつまらないわけではないけれど、もはや原物語のようなものであり、単純すぎて絵本を見ているように思えてしまう。
もうひとつ極めてハリウッド的なのが、映像の作り方だ、この作品にはどこかホーム・コメディのような印象がある。それは、この作品のカメラが決して、設置された舞台の内部に入っていかないからだ。つまり、たとえばルーシーのアパートが舞台となっていたとしたら、カメラはその一室にしつらえられた仮想上の線の内部には絶対に入らない。その外側で位置を動かしたり、ズームでよったりすることはあっても、反対側からその部屋を捉えることはしないのだ。そのため観客は舞台の一方の側から芝居を見ているような感覚になり、そこにホーム・コメディのような雰囲気が生まれるのだ。
しかし、これも実は古典的なハリウッド映画の大原則のひとつである。コメディに限らず、アクションでも、ホラーでもそのような仮想上の線が必ず設けられ、その内側にはカメラが入り込まないように設定されている。それによって観客は登場人物や映っているものの位置関係を混乱することなく理解することができるというわけだが、それも今は昔の話である。今の観客はカメラが縦横無尽に駆け回るのにもうなれてしまっているから、このような古典的な映像を見ると、舞台で演じられるホーム・コメディじみたものという印象をどうしても感じてしまうのだ。
この映画はこのようにまさに古典的ハリウッド映画の典型というわけだが、その割に面白く見ることができ、退屈するこもなく、むしろ懐かしさを感じるような居心地のよさがある。ラブコメが好きだという人なら、こういう映画を見るとなんとなく「あー」という感慨を感じるのではないだろうか。