プルートで朝食を
2007/2/20
Breakfast on Pluto
2005年,アイルランド=イギリス,127分
- 監督
- ニール・ジョーダン
- 原作
- パトリック・マッケーブ
- 脚本
- ニール・ジョーダン
- パトリック・マッケーブ
- 撮影
- デクラン・クイン
- 音楽
- アンナ・ジョーダン
- 出演
- キリアン・マーフィ
- リーアム・ニーソン
- ルース・ネッガ
- ローレンス・キンラン
- スティーヴン・レイ
- イアン・ハート
- ブライアン・フェリー
アイルランドの田舎町の教会の前に捨てられたパトリックは近所のブレイデン家で育てられた。パトリックは幼い頃から姉のドレスやお化粧に興味を持ち、やがて“キトゥン”と名乗るようになった。しかし時は70年代、IRAのテロは勢いを増しており、パトリックの親友の一人がそれに巻き込まれてしまう…
アイルランドでベスト・セラーとなった同名小説を巨匠ニール・ジョーダンが映画化した。
決してワクワクするような作品ではないのだが、見終わって見るとなかなか味わい深い。序盤の女の子の格好に憧れる男の子という設定は『ぼくのバラ色の人生』などを思い出させるし、同様に幻想的とも思わせる部分もあって、ニール・ジョーダンらしからぬという印象を持つ。しかし、パトリックが成長し、IRAなどの問題が絡んでくると、さすがという展開を見せ始める。
キトゥンの最初の恋人となったロックシンガーがIRAに参加しているという設定だが、キトゥンはあくまでそれに巻き込まれまいとする。彼女は「真剣であること」を嫌い、そんな世界なら生きていたくないとまで思うのだ。
これは非常に示唆的だ。オカマ(いまなら性同一性障害だが、当時はただのオカマ)であるキトゥンは男女関係の埒外におり、社会の埒外にいる。しかし、一つの恋によって彼女は社会の網に絡み取られ、否応なしに社会のしがらみに引きずり込まれるのだ。彼女はただ好きな人と一緒に痛いだけなのに、社会派それを許さない。彼女だけが社会の埒外にいる分にはいいが、相手の男とのかかわりにおいて社会とかかわらざるを得ないのだ。そして、彼女は社会の埒外にいたいのだ。
だから、彼女の人生は困難なものになる。愛を探しながら社会からは逃れる、その不可能なふたつを両立させようとして彼女は着ぐるみをかぶり、テロリストと間違われる。
そんな彼女にとって“母”とは何なのか、それは彼女にとっての欠如であると同時に目標である。彼女の中にぽかりと開いた穴であり、またそのようになりたいという理想でもある。それを追い求め続けるが、決して手にすることができない欲望の対象、それは人間にとって普遍的な欲望を象徴しているのかもしれない。 そして、キトゥンの父親にとっても彼女はそのような存在である。女を欲望することを禁じられた神父が求める禁じられた対象、そこに存在するのは禁忌と欲望の相克である。
そのようにして同じものを決して手にすることができない欲望の対象として追い続けるふたりはいつしか出会う。欲望とはそれを手にすることが重要なのではなく、それを求めることが重要なのである。その過程の中で何かを手にし、何かを失う。
ニール・ジョーダンは“オカマ”と神父という欲望に対して特異なあり方をせざるを得ない人の欲望を描くことで、人間の普遍的な欲望について描こうとしたのだろうか。
この物語が退屈さを持ちながら不思議な魅力が備わっているのはそこに欲望をめぐる物語という普遍的な言説が潜んでいるからなのではないか。思えばニール・ジョーダンの作品には常に欲望が絡んできた。突き詰めていけばラカンやらなんやらの心理学的背景がでてきそうなその深みが彼の作品の魅力の秘密なのかもしれない。