肉体と悪魔
2007/2/22
Flesh and the Devil
1926年,アメリカ,90分
- 監督
- クラレンス・ブラウン
- 原作
- ヘルマン・ズーデルマン
- 脚本
- ベンジャミン・F・グレイザー
- 撮影
- ウィリアム・H・ダニエルズ
- 出演
- グレタ・ガルボ
- ジョン・ギルバート
- ラルス・ハンソン
- バーバラ・ケント
- ウィリアム・オーランド
軍の休暇で親友のウルリッヒとともに故郷を訪れたレオは母親やウルリッヒの妹ヘルタとの再開を喜んでいたが、駅で見かけたひとりの美女フェリシタスに一目ぼれしてしまう。その夜の舞踏会で再会した二人はすぐに恋仲になるが、フェリシタスには実は夫があり…
グレタ・ガルボがハリウッドでスターの座を射止めた作品。確かにグレタ・ガルボの妖艶な魅力は発揮されているが作品としては凡庸か。
グレタ・ガルボはいわゆる“魔性の女”を演じる、夫がいるにもかかわらずレオを愛してしまい、それが原因で決闘が起き、夫は死ぬ。そして、レオがアフリカに赴任すると、その間にウルリッヒと結婚してしまうのだ。これはあまりにもあまりな展開、魔性の女というよりは単に惚れっぽい、あるいは周囲に流されやすいだけの女という気もするが、とにかくそのようにして男を翻弄するのである。
これがグレタ・ガルボという素材を生かそうという戦略であることは間違いない。ヨーロッパからやってきた間違いなくヨーロッパ顔をした売出し中の女優、その素材の良さを見出したMGMが彼女を売り出すべくこの映画を作ったのだ。その狙いは見事に成功し、彼女の妖艶な魅力は世の男たち(女たちも)をとりこにした。彼女の整った顔立ちと冷たいまなざし、上目遣いをするときのその魅力、すらりとしたスタイル、どれをとってもアメリカ的な(言ってしまえばメアリ・ピックフォード的な)健康的な魅力とは別の魅力がそこにあるのだ。
それだけでこの作品は十分であって、この物語もその魅力を発揮させるための舞台装置に過ぎなかったはずだ。そして、映画の大半はその通りに進行する。しかし、ラストでクラレンス・ブラウンはこの設定を破綻させてしまう。
<ここからネタばれです。>
レオがアフリカから帰ってくるとフェリシタスはウルリッヒと結婚してしまっているわけだが、フェリシタスはレオに再び愛の言葉をささやき、一緒に逃げようというのだ。しかし、それを実行しようという夜、フェリシタスはウルリッヒから豪華なブレスレットを贈り物としてもらう。それを見たフェリシタスはレオと逃げることを拒否するのだ。そしてレオとウルリッヒの2人は翌朝決闘するべく“友情の島”へと向かう。
ここまではいい。しかし、ここでクラレンス・ブラウンの倫理観が働いたのか、友人2人が仲直りをしてしまうのだ。そして、友情の島へと向かったフェリシタスは割れた氷の下へと沈んでしまう。これはいかがなものか。悪女、あるいは魔性の女という設定を徹底するのなら、2人は決闘し、どちらかが死に、フェリシタスはその生き残った1人を捨てて去って行くべきではなかったか。それでこそ本当の悪女であり、冷徹な魅力を発する女になるのではないだろうか。
この結末ではフェリシタスは少し頭の足りない自分勝手な女にしか見えない。妖艶というよりは白痴的なそんな女になってしまう。当時の倫理観からすればそのような結末は許されなかったのかもしれないし、ある意味では極めてハリウッド的なハッピーエンドではあるけれど(この後レオがヘルタと結婚することは明らかだ)、今から見ればこれが1920年頃から映画を撮ってきた(あの『モヒカン族の最後』の監督である)クラレンス・ブラウンの限界なのかもしれない。
グレタ・ガルボはこのクラレンス・ブラウンと多く仕事をしているが、それがよかったのか悪かったのか。