トランスアメリカ
2007/2/23
Transamerica
2005年,アメリカ,103分
- 監督
- ダンカン・タッカー
- 脚本
- ダンカン・タッカー
- 撮影
- スティーヴン・カツミアスキー
- 音楽
- デヴィッド・マンスフィールド
- 出演
- フェリシティ・ハフマン
- ケヴィン・ゼガーズ
- フィオヌラ・フラナガン
- エリザベス・ペーニャ
- グレアム・グリーン
性同一性障害に悩むブリーはようやくカウンセラーの同意を取り付け、性転換手術を受けることになった。しかしその矢先、ニューヨークの拘置所から“スタンリー”の息子が捕まったという知らせがある。一度だけ女性と関係を持ったことがあるブリーはそれが自分の息子だと考え始める…
トランスセクシャルと親子関係というふたつの問題を一つの旅に込めたロードムービー。監督のダンカン・タッカーはインディーズ出身でこれがデビュー作、主演のフェリシティ・ハフマンはアカデミー賞候補にまでなった。
この映画はトランスセクシュアルの父親と、父親に憧れる不良の息子という舞台装置によってほとんど全ての要素が決定してしまっている。だから物語の展開は予想通りに進むわけだが、それはつまり望ましい展開ということでもある。ありがちな展開ではなく、望ましい展開をする、それがこの映画な見事なところであるといえる。
ブリーは子供の頃から何十年もトランスセクシュアルに悩み、ついにそれを解消することができるチャンスがやってきたのだから、それに固執するのが当然だ。いくら未知の息子が現れたからって突然父性(あるいは母性)がわいて、自分のことよりも息子のことを優先するなんて話ではまったく説得力がない。だからブリーは息子よりも自分を優先して、カウンセラーを納得させることができ、自分の望みを実現することができる車での旅を選択するのだ。
これは私には当たり前の展開と映るが、ハリウッド映画にありがちなのは逆にブリーが突然父性に目覚め、まず息子との関係を修復しようとするという展開だ。息子に自分のトランスセクシャルを告げることはできないから、とりあえず男のふりをして息子の前に現れ、息子の願望を満たしてやるという展開である。それもひとつのあり方であり、それでも面白い展開が起こりうるとは思う。しかし、やはりブリーの心情を思うとそれはリアルではなく、この作品の展開のほうがふさわしいのだと思う。
そのようにうまく展開されるこの物語は確かにおもしろい。しかし、起きる出来事も息子の反応もブリーの親の反応もどれもこれもが予想通りとなるのがどうも気詰まりだ。つまりこの映画は非常に優等生の映画なのである。ありうべきステレオタイプと望ましい進歩的な思想、そのふたつを対立させて、結局愛の力が古臭いステレオタイプを打ち砕き、進歩的な思想が勝利する。全てがそのような展開で支配されているのである。だから面白くはあるが退屈でもあるのだ。
しかし、ラストは少し違う。物語はとんとん拍子に進むのではなく、最後に停滞するのだ。典型的なハッピーエンドではなく、このように停滞することでこの物語はリアリティを取り戻し、嘘っぽいハッピーエンドよりもっと幸福な結末を迎えることができているのだ。
そして、何よりも特筆すべきはフェリシティ・ハフマンである。性同一性障害の男性を女性が演じるというのは非常に難しいことのはずだ。もちろんメイクの技術もあるのだろうが、彼女はどう見てもおっさんにしか見えない(映画の途中ではうっすらとひげさえ生えている)。声も必死で高い音を出そうとしている男性の声にしか聞こえないのだ。
この映画ははっきり言ってこのフェリシティ・は不満の存在によって初めて成立している。もちろん男性に演じさせることもできたとは思うが、ブリーの心はあくまで女性なのである。女性になりたい男性ではなくて、男性の体を身にまとった女性、それを演じられるのはやはり女性なのだろう。これまでトランスセクシャルを演じる役者はやはり肉体的な性別によって決定されることが多かったが、このやり方のほうが(演技力やメイク技術が伴えば)しれないと思えた。