ゆれる
2007/3/4
2006年,日本,119分
- 監督
- 西川美和
- 脚本
- 西川美和
- 撮影
- 高瀬比呂志
- 音楽
- カリフラワーズ
- 出演
- オダギリジョー
- 香川照之
- 伊武雅刀
- 新井浩文
- 真木よう子
- 蟹江敬三
- 木村祐一
- ピエール瀧
東京で写真かをする猛が母の一周忌で久々に帰郷する。葬式にも帰ってこない息子を許せない父とはやはり折り合いが悪いが温厚な兄の稔が何とかとりなす。翌日、猛と稔は稔のスタンドで働く幼馴染の智恵子と3人で近くの蓮実渓谷を訪ねるが、そこで事件が起きる…
『蛇イチゴ』で注目を集めた西川美和が是枝裕和の企画の下で撮った力作。カンヌ映画祭にも正式出品された。
映画の面白さにはいろいろなものがあるけれど、そのひとつとしてあるのが「謎解き」である。これは必ずしもサスペンスに限らず、ある謎が提示されて、それが最後に解決される(あるいは観客が解決するように仕向けられる)という仕組みである。ヒューマンドラマでも、コメディでもこの「謎解き」がプロットの組み立ての上で大きな役割を果たしている作品は多い。
そしてこの作品もその一つである。結局兄は智恵子を殺したのか、という大きな謎、兄弟のそれぞれは何を思っているのかと言う謎、それらの謎を観客に対して投げかけ、ヒントを次々と与え、最後には観客それぞれがその答えを見つけ出せるようにする。その構造にしたがってその謎の答えにたどり着くことが出来れば観客はカタルシスを感じ、この作品に喝采を送る。そしてこの作品は、その答えが見つけにくいものであるかのように描かれ、その答えを見つけ出すことによるカタルシスを非常に強いものにしているのだ。
それは、この作品が最終的に「兄は本当に智恵子を殺したのか」ということではなく、兄弟それぞれの心理のほうの「謎解き」に重点を置くことになるからだ。観客はそれぞれの心理を推理し、そのプロットの過程でどのように変化して言ったのかを推測し、ラストシーンでそれを確認する。あるいはラストシーンの一瞬が過ぎ去った跡で、全てを再構築してみて納得する。この映画はその再構築の時点で、映画の途中に登場した様々なシーンが道しるべのように立ち現れ、ふたつの物語を作り上げるように構成されているのだ。
だからそのように映画を見ることが出来た人にはすごく面白い作品となっただろうし、その分全てのシーンが強く印象に残っただろう。それはまさにこの西川美和という映画作家の力量であり、評価できるものだと思う。
しかし、私はこの作品があまり好きではない。なぜかと言えば、あまりにあざといからだ。この作品は観客が自分で謎を解くように完全に組み立てられた作品だ。ここに描かれているのは兄弟の葛藤だというが、私にはこの兄弟の言い争いや行動は全てがこの謎解きのための道筋にしか見えなかった。彼らの心理を推察することはできるが、彼らはちっともリアルではない。きわめて映画的な部分的な人間でしかないように思えて仕方がないのだ。
いうなれば彼らの行動は一種のステレオタイプ化された人間の行動に過ぎないのではないだろうか。母の映写機がどこかで重要な役割を果たすことは(そしてその役割も)それが出てきた時点ですぐにわかってしまうし、兄がどこかで狂人じみてくるのも、この展開なら当たり前と思えてしまうのだ。
そしてまた、この作品が都合よく視点を変えるというのも卑怯な気がする。この作品は結局、兄弟どちらの視点もとらず、かと言って客観的な視点もとらない。もちろんそれがいけないということではないし、意図的に隠すことによって「謎解き」を面白くすることは必要なのだけれど、この作品では兄弟それぞれの心理を組み立てる土台であるはずのそれぞれにとっての“事実”が決して明らかにはならないのだ。明らかになっているのは彼らが二人とも“真実”を知っているということだけだ。真実を知った上で彼らが取っている行動を見て“真実”とは何かという謎を解く。ということならそれは成立しているが、いつからかその謎解きは脇へ退き、組み立てる土台を欠いた彼らの心理のほうの謎を解けと言われてしまうのだ。
私にはこれが誠実な作品だとは思えないし、実験的な作品だとも思えない。これは観客にカタルシスを与えるための完全なるエンターテインメント作品であるのだ。そしてそれならそれで堂々とエンターテインメント然としていればいいのに、どこかヒューマニスティックと言うかアートっぽいという感じを出してしまう。そこがどうも気に入らない。
もし、そのような偽装もまた観客のカタルシスを増大させるための仕掛けであるならば、この作品は本当にすごい作品だと思う。この監督はおそらく相当な映画オタクだろうから、そのような計算という可能性もなくはないかもしれないかが、もしそうならどこかでそうとわかる仕草があってしかるべきだろう。