キングス&クイーン
2007/3/5
Rois et Reine
2004年,フランス,150分
- 監督
- アルノー・デプレシャン
- 脚本
- ロジェ・ボーボ
- アルノー・デプレシャン
- 撮影
- エリック・ゴーティエ
- 音楽
- グレゴワール・エッツェル
- 出演
- エマニュエル・ドゥヴォス
- マチュー・アマルリック
- カトリーヌ・ドヌーヴ
- モーリス・ガレル
- ナタリー・ブトゥフー
- マガリ・ヴォック
- ジャン=ポール・ルシヨン
- ヴァランタン・ルロン
パリで画廊を営むノラはジャン=ジャックとの三度目の結婚を控え、田舎に住む作家の父に預けてある息子エリアスに会いに行く。そこで血便が出たという父を病院に連れて行くと、末期のガンと宣告される…
アルノー・デプレシャン監督がひとりの女性を中心に、その周囲の人々の内面を描いて行く詩的な人間ドラマ。淡々とした展開だが、人間の内面の描き方には深みがあり、見ながら様々なことがあたまをよぎる。
世の中には“詩人”と“詩人以外”しか存在しない。“詩人”とはどんなに言葉を紡いだとしても、それは何も伝えることができないということを知っている人のことだ。そのことを知っているからこそ無数の言葉を紡いで、それを聞いている相手の中の何かを喚起しようとする。“詩人以外”の人たちは言葉の力を信じているから言葉によってコミュニケーションを取ることでその相手との間で心が通じると信じることができる。
この二者を比較してみると、“詩人以外”の人のほうが幸せらしいし、人間らしいし、「まとも」である。それは決して皮肉ではない。“詩人”ではないほうが人は幸せなのだ。しかし私は否応なく“詩人”に惹かれてしまうし、詩人ではない多くの人もそうであるはずだ。実際は誰もが心の中に“詩人”を抱えている。
この映画にはたくさんの“詩人”が登場する。主人公の一人であるイスマエルはその典型である。彼のことを理解するのは非常に難しく、彼の言動から何かを読み取るということはほとんど不可能に近い。しかしこの映画は彼の言葉や行動をつぶさに伝えることによって観る者の中の何かを喚起しようとしている。
私の心にひっかかったのはもう一人の“詩人”であるクロエだ。もう一人の主人公であるノラの妹であるクロエの登場シーンは非常に少なく、しかも彼女は寡黙だ。しかし、彼女が一度だけ言葉を荒げるシーンがある。それは姉が父を安楽死させたことに対して感情をぶつけるシーンである。しかし、すぐに彼女は怒りを静め、逆にショックを受けた姉を慰める。ここから私は彼女が言葉を発することや感情を爆発させることに対して無力感を感じているという印象を受ける。
それに対して姉のノラは典型的な“詩人以外”の人間だ。彼女も感情を表に出すことはないが、それはその無力さを知っているからではなく「みっともない」からだ。私はそのことを父親の最後の言葉によって痛切に理解した。
彼女の父親は“詩人”だった。しかし彼は言葉が力を持つ瞬間を知っていたのだ。そして彼は娘にその瞬間を利用して伝えなければならないことがあった。それは痛烈で身を切るような言葉だけれど、それは伝えられなければならなかったのだ。それでノラが“詩人”になるわけではない。しかし、彼女の内なる詩人はその言葉をそのか細い体に刻み付ける。彼女の表層にいる“詩人以外”の人格はそれを拒絶しても、彼女の内なる詩人はそれによって少し目覚めるのだ。
この文章が何も伝えていないことを私はわかっている。しかし、この文章があなたの中の何かを喚起することができたとしたら、私も“詩人”の端くれになることができたということだ。
この映画は完全なる一編の詩である。言葉に絶望的な詩人は映像に希望を見出したりはしない。しかし、言葉も映像も同じように喚起的なメディアではある。言葉と映像によってより多くの情報を発信すれば、喚起力が強まるとは必ずしも思わないが、この作品の言葉と映像のコンビネーションは非常に喚起的である。
この詩が観る人の中に喚起する“何か”は観る人によって当然異なるだろう。しかし、何かが喚起されたとしたらなば、それはその人の内なる詩人が少し目覚めたということだ。私の中で目覚めた内なる詩人は私にこのような無意味な言葉をひたすらに綴らせようとするのだ。