楽日
2007/3/20
不散
2003年,台湾,82分
- 監督
- ツァイ・ミンリャン
- 脚本
- ツァイ・ミンリャン
- 撮影
- リャオ・ペンロン
- 出演
- チェン・シャンチー
- リー・カンション
- 三田村恭伸
- ミャオ・ティエン
- シー・チュン
- ヤン・クイメイ
古ぼけた映画館、受付の足の悪い女は蒸かしたあんまんを映写室に持って行ったり、トイレの水を流したりという仕事をしている。客がまばらな客席では一人の男が近くの客のくちゃくちゃという音に辟易して他の席に移るが、そこでも迷惑な客に出会ってしまう…
ツァイ・ミンリャンが閉館間近の映画館で働く男女と少ない客を描いたドラマ。ほとんどセリフがなく、まったく退屈だが、最後まで見れば、なるほどねという気分にはなる。
何かが起こりそうな雰囲気というのは非常に映画的だと私は思う。何の説明もなく、登場する人も何もしゃべらず、しかし何かをしていて、あるいはどこかへ向かっている。するとその何かをやり終えたり、そのどこかへたどり着いたときに何かが起こるのではないかという期待が自然に生まれる。
それはシーンとシーンのつながりから成り立っている映画が本来的に次のシーンに対する期待を観客に抱かせるものだからだ。観客は今観ているシーンの次にどのようなシーンが来るのか、それを常に予想しながら映画を観ている。だから次のシーンで何かが起こりそうだという雰囲気を作り出すことはその観客の期待を煽ることでもあるのだ。
そしてこの作品はその雰囲気をうまく作る。例えば無人の廊下が映ると、そこに人が入ってくると私たちは期待する。部屋をドア口からのぞくショットでは、そのドア口に誰かが現れると期待する。映画というのはその観客の期待にこたえるかそれを裏切るかという選択によって成り立っていると一面ではいうことができ、時に期待にこたえ、時に裏切るその呼吸によって観客は映画に引き込まれて行くのである。
しかし、この映画はその観客の期待をことごとく裏切り続ける。何かが置きそうな時間が長く続くが、シーンが切り替わっても決して何も起きないのだ。昔の映画館に迷い込んだかのような日本人の奇矯な振る舞いも何の波風も引き起こさず、逆に彼もまた周囲の奇矯な振る舞いに戸惑うばかりなのだ。
その何かが起こりそうで何も起こらないという展開があまりに長く続きすぎるため、この作品は時間を追うごとにどんどん退屈になって行く。徐々に結局何も怒らないのではないかという感覚で映画を見るようになり、その映像はただただ単調で冗長で無意味なものにしか見えなくなってしまうのだ。
最後まで見れば、あーなるほど、という結末が用意され、切なさと映画への愛とノスタルジーとが混ざり合った感慨のようなものを感じることはできるのだけれど、それまでの展開の単調さは眠気をも催すほどに退屈だ。
だから、あまり人に勧めようという気にはなれないが、よっぽど映画が好きで、映画についていろいろと考えてみたいというのならこの映画を見ることで考えてしまうことはあるのではないかと思う。
私はといえば、この観客の何かが起こりそうだという期待感について考えながら、もしかしたらその期待感こそが映画を動かしているのではないかという夢想に浸った。観客は動いている映像を見せられているのではなく、能動的に映像を動かしているのではないかと。
それはもちろん夢想に過ぎない。映画とはフィルムに記録された静止画を1秒間に30枚という一定のペースでスクリーンに投射することによって生み出された動く映像であり、それを動かすのは一定の速度でフィルムを回し、一定の速度で明滅する明かりでそれを照射する映写機であことは間違いないのだ。
しかし、もし観客が次に起こる何かを期待することをやめてしまったら映画というものは成り立つのだろうか。単純に考えるとそれをやめてしまった観客は席を立ち、その人にとってのその映画はそこで止まってしまうということだけれど、ならば、翻って考えてみれば、観る人の期待感というのは映画が進んで行くために不可欠な要素だとも言えなくはないだろうか。映画は自らの歩みを止めさせないために観客に次への期待感を抱かせ続ける。
映画の面白さと言うのはその映画と観客の間の相克から生まれるのではないか、そんなことを考えながら私は退屈な時間を埋めていたのだ。