セブンス・コンチネント
2007/3/21
Der Siebente Kontinent
1989年,オーストリア,104分
- 監督
- ミヒャエル・ハネケ
- 脚本
- ミヒャエル・ハネケ
- 撮影
- アントン・ペシュケ
- 音楽
- アルバン・ベルグ
- 出演
- ビルギッド・ドール
- ディーター・ベルナー
- ウド・ザメル
- ゲオルグ・フリードリヒ
1987年、研究者のゲオルグと眼鏡店で働くアンナ、小学生のエヴァの家族はそこそこ裕福な暮らしをしていたが、そこに鬱病になってしまったアンナの弟がやってくる。翌年、ゲオルグは昇進し、アンナの弟も回復し、一家はさらに幸せをつかんだように見えたが…
映画評論家やTV、舞台で脚本家・演出家として活躍したミヒャエル・ハネケの監督デビュー作。遅咲きの巨匠のデビュー作はすでに完成された雰囲気を持つ真摯なドラマであった。
冒頭のシーンは洗車機の中である。前に夫婦が座り、外から車を映すと、後ろの席に娘が乗っている。そして洗車機を出ると「オーストラリアへようこそ」のポスターが見える。オーストラリア映画の冒頭にオーストラリアのポスターというのがいたずらなのか、それともこの物語のつかみなのかわかりかねるが、この作品の題名である『セブンス・コンチネント』がオーストラリア大陸を表す言葉であると認識していれば、このポスターに意味があるであろうことは予想がつく。
そこからしばらくハネケは登場人物たちの顔を映さない。映るのはドアのノブやコップに刺さった三本の歯磨き、朝食のメニューであり、その視線はまるで子供の視線であるかのような高さにそろえられている。
3人が出かけると、カメラは登場人物たちの顔を捉え、ごく普通の映像になるのだが、その時までにハネケは重要なものをすでに提示してしまっている。洗車機、オーストラリアの浜辺の風景、ドアノブ、コーンフレイクス、車、この作品の中で繰り返し反復されるそれらの要素がこの導入部分にすでに登場しているのだ。
その後ドラマはごく普通の家族の生活を映しているかのように進行して行くが、そこには常に“違和感”が存在している。何かがかけているような、どこかがおかしいような漠然とした感覚、それが常に画面にまとわりついているように感じるのだ。それは例えば、寝室の鍵穴に挿された鍵、テーブルに無造作に置かれた上着、エヴァが目が見えなくなったと嘘をつくその嘘、それらが映像と物語に瑕を残して行くのである。
そして登場する鬱病の弟、彼の登場は何かを崩壊させるきっかけのようにも見えるが、時間を飛び越えることでその崩壊は訪れることはない。しかし、洗車機の中でアンナが涙を流すとき、その涙の理由はまったく想像もつかないのだが、それがこの家族にとって決定的な瑕なのだということがはっきりとわかる。アンナが後部座席に手を差し伸べ、エヴァがそれを握り締め、アンナがそれを再び引っ込めたときにエヴァの前にぽっかりと明く空白、その空白は彼らの心の中にずっと存在し続けていた空白に他ならない。その時にはすごく切ない気持ちになっただけだったが、結末を見てから振り返って見ると、それが彼らの心の空白を象徴していたことは明らかだ。
彼らにとって“第七の大陸”オーストラリアとは一体なんだったのだろうか。その海に囲まれた隔絶した大陸は何を象徴していたのだろう。それを解く鍵は、彼らが目覚ましに使っているラジオやカーラジオやテレビから流れるニュースにあるのかもしれない。そこで流れるニュースはイラン・イラク戦争や、ハイジャックのニュースであり、悲惨で厳しい現実を伝えるものばかりである。
彼らにとってオーストラリアはそのような現実の埒外にあるもの、存在し得ないユートピアであったのではないか。ユートピアとは理想郷であると同時に存在し得ない場所でもある。洗車場のポスターの風景にユートピアを見出したゲオルグの夢で見るオーストラリアの空はいつも曇っている。
ユートピアの空さえ曇らせる現実の悲惨さは彼らをやがて絶望へと導くのだ。